ルノワール「幸福な画家」前編【画家】

数多い印象派の画家の中でも、ルノワールはおそらく最も人気の高い画家の一人といって良いでしょう。少女や美しい女性を多く描き、溢れんばかりの光と幸せに満ちたその色彩。特に上流社会の人々から愛され、今でも多くの愛好家が世界中に存在する、素晴らしい画家です。

ピエール・オーギュスト・ルノワール。1841年2月25日、磁器の産地として名高いフランス中西部の町リモージュで生まれ。父レオナールは仕立て屋で母マルグリッドはお針子。ルノワールは7人兄弟の6番目ですが上2人は幼時に亡くなっています。彼が3歳時、一家はパリのルーブルに移り住みました。

幼少時から絵が好きだったルノアール。できるだけ早く自活できるようにと13歳で磁器絵付け職人の見習いに出されます。皿や壷にロココ時代画家の模写の絵付けの仕事をしながら、夜は彫刻家カルエットの主宰するデッサン装飾学校に通ったそうです。

《花瓶》1857年 シカゴ美術館

《花束》1858年 個人蔵

《バラの冠》1858年 個人蔵

しかしこの時代の産業革命の波が…磁器にも印刷できる技術が発達しだすとルノワールは失業してしまいます。それでも扇や窓、カフェの壁絵の装飾の仕事で生計をたてていき、1961年からは画塾、シャルル・グレールのアトリエで本格的に絵の勉強を始めました。またそのころはルーブル美術館で模写修業に明け暮れていたそうです。

そして1962年には自から働いたお金で、美術学校エコール・デ・ボザールへの入学を果たします。20歳で本格的な絵画人生がスタートしたのでした。

78年の生涯残した作品はおよそ6000点。

今でも世界中に彼のファンは多く、誰もが聞いた事のある名でしょう。優美で生き生きとした少女や女性を多く描き、“印象派”の代表格の一人と言われているルノワール。

しかしそんな彼としては印象派としての画家ではなく、古典的な画家への憧れや敬意があったようです。また、当時のお得意様達からの写実古典描写と印象描写2つのニーズの中で悩んでいたのかもしれませんね。

自分の画力や画風に常に不満や劣等感を抱いていたのか、惜しみない努力を死ぬまで注ぐストイックな性格なのでした。

そんなルノワールの「幸福な画家」と言われるその所以とは。ご案内します。

前編

入選と落選

シャルル・グレールの画塾

シャルル・グレールのアトリエは、共和主義者を自認するグレールのリベラルな教育方針と彼の人柄を慕って大勢の弟子が集まっていました。ここでルノアールはフレデリック・バジールアルフレッド・シスレー、そしてクロード・モネと親しくなります。

これはグレールのアトリエ所属の画家達の面々。みんなの共同制作なんだそうです。どれがルノワールかわかりますか?

《グレールのアトリエの43人の画家の肖像》
1860年 プティ・パレ美術館

答は一番下の段の左から3人目、の真上のヒゲの人物。ラボルトが描いたそうで、向き合ってるのがラポルトでルノワールが描きました。

この頃の若い画家志望だった彼らはみな古典主義的風潮に挑戦していたウジェーヌ・ドラクロワや、写実主義のギュスターヴ・クルーベを賛美していました。

またカミ−ユ・コロードミニク・アングル、そしてエデゥアール・マネが尊敬し憧れる先輩若手画家だったといいます。

《母の肖像》1860年 個人蔵

《ビーナスとキューピット》
(アレゴリー)1860年 個人蔵


ルーベンス《神の評議会》の模写
1861年 国立西洋美術館

美術学校 とサロン

一方、美術学校エコール・デ・ボザールでは定期的に学内のコンクールが行なわれており、ルノワールはかなりの好成績を納めたそうです。そんな彼は当然サロン(官展)へ挑戦します。サロン入選という事は大変な名誉が与えられる、いわば一流画家への登竜門でした。また絵画市場へも有利になり画家達にとっては目標だったわけです。

《船上パーティからの帰還》1862年 個人蔵
《眠っている猫》1862年 個人蔵

しかしながら、この頃はサロンの審査委員会の選択を何の疑いもなく受け入れる輩と、既成の体制に異議を持ち、ジャーナリストや愛好家、美術商などの擁護者と新たな新しい風潮を唱える輩が対立していた時代。

そんな雰囲気の中、1863年《ニンフと牧神》は落選。64年に《踊るエスメラルダ》でルノワールはサロンに初入選を果たしまが…この作品は後にルノワール自身により捨てられてしまいました。

《森の開拓》1865年 デトロイト美術館

《温室の花》1864年 クリーブランド美術館

《大きな花瓶》1866年 フォッグ美術館

《エミール・アンリ・ラポートの肖像》1864年 個人蔵

《マドモアゼル・シコット》1865年
ワシントン・ナショナルギャラリー

《花瓶の花》1866年頃 
ワシントン.ナショナル・ギャラリー

《花瓶の花》1869年頃 
マサチューセッツ美術館

この年ルノワールは初めて注文を受けて《ロメーヌ・ラコーの肖像》を制作しています。かわいい少女ですよね。これから沢山の少女像を描いて行く事になります。

《ロメーヌ・ラコー嬢》1864年 
クリーブランド美術館

さらに翌年の65年、再びサロンに入選。2点出品しますがそのうちの一点は《ウイリアム・シスレー》これはシスレーの父親の肖像画です。しかし、この時同じく入選したモネの風景画には注目が集まったものの、ルノワールの作品には批評家たちは無関心だったそうです。

《ウイリアム・シスレー》1864年
オルセー美術館

”印象”を夢見て

フォンテーニュブローの森

金銭的に厳しかったルノワールは、ラボルトやシスレー、バジールのアトリエに寄宿していました。当時はグレールのアトリエの仲間達との友情が生活の中心。ともにイーゼルを並べ画業にいそしむ毎日でした。

《2人の人物のいる風景》1865年 個人蔵

《サン・クルー公園》1865-66年 個人蔵

《妖精の池》1866年 個人蔵

そんな中、サロン出品のために制作したのは《アントニーおばさんの宿屋》。アントニーおばさんとはフォンテーヌブローの森の南端にある芸術家が多く宿泊した宿屋の女将。白い帽子がシスレー、向かい合うのが画家のジュール・ル・クルール。ヒゲの男性がモネにも見えますが…定かではないそうです。

《アントニーおばさんの宿屋》1866年 
ストックホルム国立美術館
《フォンテーヌ・ブローの森を散策する
ジュール・ル・クルール1866年
サンパウロ美術館

この同じ年に《フォンテーヌ・ブローの森を散策するジュール・ル・クルール》を制作しています。この2つの色調から当時は“バルビゾン派”から影響を受けているのではないかと言われています。

しかし…この1866年の春のサロンでは落選してしまいました。

パティニョール派

現在のクリシー街にあたるパティニョール通り11番街のカフェ・ゲルヴォワには1966年から通っていたマネに続いて画家や作家、批評家たちが出入りするようになっていました。

熱心な常連客の中にはセザンヌの幼なじみエミール・ゾラや、ザカリ・アストリュック、エドモン・デュランティ、テオドール・デュレなどの批評家達。そして画家のバジール、ルノワール、ラトゥール、ドガなど。ポール・セザンヌやモネ、ピサロもパリに出て来ると頻繁に寄ったといいます。

カフェ・ゲルヴォワに集う若いアヴァンギャルド画家達のことを象徴して、当時“パティニョール派”と呼ばれたそうです。

彼らは後に“印象派”と呼ばれる事になります。

《猫を抱く少年》1868年 オルセー美術館

そのパティニョール派と言われる印象派予備軍。実際はそれが認識される以前から、仲間たちのグループが生まれていました。

アカデミー・シュイスには、モネ、セザンヌ、ピサロ、ギヨマン。グレールのアトリエには、ルノワール、シスレー、バジールが。

2つのグループを結びつけたのはモネでした。彼らは共にフォンテーヌ・ブローの森などや周辺の集落など戸外に出て写生をし、共にアトリエを共有して制作しながら新しい道を歩み始めます。

《1867年のパリ万国博覧会中の
シャンゼリゼ通り》1867年 個人蔵
《学士院とボン・デ・ザール》1867-68年
ノートン・サイモン美術館

バジール作《ルノワールの肖像》
1867年 オルセー美術館

《バジールの肖像》1867年 オルセー美術館

《婚約者たち(シスレー夫妻)》1868年
ヴァルラフリヒャルツ美術館
《ブローニュの森でスケートをする人々》1868年 個人蔵

リーズと肖像画

この頃ルノワールには恋人がいました。名はリーズ・トレオ。ちなみに彼女はジュール・ル・クールの恋人クレマンス・トレオの妹で17歳。ルノワールは25歳…なにげに少しロリコンぎみなのでしょうかね。

《麦わら帽子の少女》1866年 バーンズ財団

《リーズ》1866年 ダラス美術館

《木のそばに立っている女性》1866年 
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

《公園の女》1866年 
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

《日傘のリーズ》のモデルとしても有名です。この作品は1868年のサロンで本格的な成功を納めます。何人かの批評家たちはマネの影響であるとの指摘、また1863年の落選展で物議をかもしたホイッスラーの《白の少女》の思い起こさせたりしました。

《日傘のリーズ》1867年
フォルクヴァング美術館

《庭の女(カモメの羽根をつけた女)》
1868年頃 バーゼル美術館

《狩りをするディアナ》1867年
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

《夏、ジプシーの女》1868年
アルテ国立美術館

《グリフォンテリアと浴女》1870年
サンパウロ美術館

《オウムを持つ女性》1871年
グッゲンハイム美術館

《小川のニンフ》1870年
ロンドン・ナショナル・ギャラリー
《アルジェの女》1870年
ワシントン・ナショナル・ギャラリー
《白いショールのリーズ》1871-72年 ダラス美術館

《日傘のリーズ》の件についてエミール・ゾラは、モネとルノワールの類似点を明らかにしています。1869,70年とサロンに出展した作品のモデルにリーズを起用しています。


ルノワールは人物画を特に得意としていました。主な収入源でもあったようですね。

《アルフレッド・シスレー》1868年
ビュールレ・コレクション

《マダム・ジョセフ・ルクール》1866年 オルセー美術館

《道化師》1868年 クレラー・ミュラー美術館

《ダラス夫人》1868年 オルセー美術館

《マダム・テオドール・シャルパンティエ》
1869年 オルセー美術館

《モネ》1868年 マルモッタンモネ美術館
《レースのブラウスの女》1869年 ポートランド美術館

《ピエール・アンリ・ルノワール》1870年 個人蔵

《レオン・ルノワール》1869年 セントルイス美術館

《アルジェリアのドレスのマダムストラ》1870年
リージョン・オブ・オーナー美術館

《シャルル・ル・クール》1870年
オルセー美術館

《マリー・ル・クール》1870年
ストラスブール近代現代美術館

シャルル・ル・クールは建築家で画家のジュール・ル・クールのお兄さんです。

ルノワールの才能を認めた最初のパトロンとなりますが、美術評論家ダグラス・クーパーによれば、シャルルの娘マリー16歳に32歳のルノワールが恋文を送ったとかでシャルルが大激怒。それで決別したのだとか…。

やっぱりロリコンぎみのルノワールなのでした。

《ジョセフ・ル・クール》1870年
ウンターリンデン博物館
《犬の頭》1870年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー

マリー・オクタヴィエ・ベルニエ夫人》1870年
メトロポリタン美術館

《エドアール・ベルニエ大尉》1871年
アルテ・マイスター絵画館

《エドモンド・マイトレの肖像 》1871年 個人蔵

親友、同志たち

ラ・グルヌイエール

ルノワールはモネとかなり親密な仲になっていきます。1869年、ルノワールは倹約のためパリ北西部郊外のルーヴシェンヌに住む両親の家に滞在することが多かったそうです。当然近隣のサン・ミッシェルに住むモネと頻繁に会う機会が増えました。

《セーヌ川の艀》1868年 オルセー美術館

そんなモネは当時たえず金に困っていて困窮状態。それは絵の具が買えなくて絵が描けなくなったりしていたルノワールも同じでした。

ラ・グルヌイエールというセーヌ川沿いの町クロワッシーにあった水浴場兼食堂。2人は良くそこで一緒に絵を描いたそうです。1870年の2人はそれぞれここを主題としてサロンに出品。結果はルノワールは入選し、モネは落選したのだとか。

《ラ・グルヌイエール》は大胆なタッチで水面に反射する光を表現。最初の印象派絵画と言われています。

《ラ・グルヌイエール》1869年 ストックホルム国立美術館
《ラ・グルヌイエール》1869年 個人蔵
《ラ・グルヌイエール》1869年 ストックホルム国立美術館

《散歩》1870年 J.ポールゲッティ美術館
《森の散歩》1870年 個人蔵

戦争と画家

また1870年は普仏戦争が勃発した年でもありました。普仏戦争とはスペインの王位継承をめぐり、フランスとプロシアとの間で起こった戦争です。

ルノワールもドガと共に召集され騎兵隊に入ります。モネやピサロは戦争を避けロンドンへ。歩兵連隊に配属されていたバジールは戦死してしまいました。

敗北したフランスがプロシアへの降伏を受入れようとしないパリ市民は1871年、革命政府パリコミューンを樹立。パリ・コミューンの動乱がすぎると、パテニョール派の画家達はパリに戻ってきます。

ルノワールも3月に除隊し、ふたたび制作に復帰しました。

《花束と団扇のある静物》1871年 ヒューストン美術館
《ラッファ・メートル》1871年 個人蔵
《もたれかかる半裸像》1872年頃 オルセー美術館
《ヌード》1872年 ノートンサイモン博物館

普仏戦争中、モネとピサロはドビーニーを介し画商ポール・デュラン=リュエルに出会います。そしてパリでルノワールとシスレーにも紹介されました。デュランは彼らに定期的に資金援助をし、精神的な支えになったといいます。

これからのパテニョール派にとってデュラン・リュエルは大きな存在となっていきました。

《ポン・ヌフ》1872年頃
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

モネとの時間

モネはオランダ経由でアルジャントイユに落ち着きます。ルノワールはしばしば彼の自宅を訪れ、戸外制作を共にしました。ルノワールをはじめシスレーやピサロ、マネが彼のもとを訪れています。最も、切迫したモネ家族の生活を心配した友人達の配慮だった事もありましたが…。

《読書するモネ》1872年 国立美術館
《アルジャントイユの庭で描くモネ》1873年 国立美術館
《花を集める少女》1872年 クラーク美術館
《アルジャントイユのセーヌ川》1873年 ポートランド美術館
《アルジャントイユでのボート遊び》1873年 個人蔵
《ソファーに横たわるモネ夫人》1872年 個人蔵

《モネ夫人》1872年 個人蔵

《モネ夫人の肖像》1872年 マルモッタン・モネ美術館

《読書するモネ夫人》1873年 クラーク美術館
《庭で傘をさす女性》1873年 ティッセンボルネミッサ美術館
《庭の女》1873年 個人蔵
《アヒルの池》1873年 ダラス美術館
《フォントネの庭》1874年 個人蔵
《イングリッシュの梨の木》1873年 オルセー美術館
《アルジャントゥイユのセーヌ》1873年 オルセー美術館
《草原の坂道》1874-77年 オルセー美術館
《アルジャントゥイユのレガッタ》1874年
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

アルジャントイユでは、モネの友人でもあったギュスターヴ・カイユボットとも知り合います。裕福な家庭に育ったカイユボットは画家であり、またコレクターであり、若い画家達のパトロンでもありました。

《クロード・モネ》1875年
オルセー美術館

マネとのエピソード

こんなエピソードがあります。マネがモネの家の庭でモネの妻、子を描いていたところ、ルノワールがやってきて、マネの隣にキャンバスを置き、同じ情景を描き始めました。マネはちらちらルノワールの絵を見たり、キャンバスを覗きにいったそうで、

「彼は才能ないね。君は彼の友達なのだから絵をやめるように言ってやった方がいい。」

とモネに言ったそうです。たしか、マネはルノワールの支持者であったはず。冗談なのかふざけていたのか…。

こちらはその時の絵。マネの全体の情景を確実に描写している雰囲気も見事ですが、ルノワールの描いた2人の夏の日のけだるい充足感ある表情が、人物画を得意とする彼ならではの画風です。

《カミーユ・モネと息子ジャン》1874年
ワソントン・ナショナル・ギャラリー

マネ作《カミーユ・モネと息子ジャン》1874年
メトロポリタン美術館


ルノワールは、72年リーズをモデルにした《アルジェリア風に装うパリの女たち》と73年に《ブローニュの森の乗馬道》と人物画をサロンに出品しましたが、いずれも落選。

その後リーズは72年に他の男性、建築家と結婚したそうです。

《アルジェリア風のパリの女たち》1872年 国立西洋美術館
《ブローニュの森の乗馬道》1873年 ハンブルグ美術館

ルノワールは2点とも翌年の落選展に出品します。これは彼が公認美術界と決別する事を示した挑戦的な行為でもありました。

73年はモンマルトルの丘に近いサン=ジョルジュ街35番地に移り、サン=ジョルジュ街にアトリエを持ちます。その翌年、父レオナールが75歳で亡くなってしまいました。

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