ミュシャ「2つの顏を持つ画家」後編【画家】

緻密で華麗な線と、装飾的な様式で美女を多く描き当時パリではミスター・アール・ヌーヴォーと言われたアルフォンス・ミュシャ。故郷チェコを愛した偉大なアーティストです。

 

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後編

連作シリーズ

装飾パネル 

ミュシャの手がけた企業広告ポスターは、インテリアとしての機能も果たして行きます。インテリアとして家に飾るたための「装飾パネル」。これは多くのファンやコレクターから人気を得ていきました。それからは多数のバリエーションで販売されていきます。

《三季節》月・北極星 リトグラフ 1898年

《ジスモンダ》の直後、印刷業者ジャンブノワ社が彼に依頼した装飾パネル《ブロンド》と《ブルネット》。並べると横顔の美女2人が向かい合うという構図。ミュシャが制作した最もポピュラーな「対幅の装飾パネルその典型と言えます。

《ブルネット/ブロンド》リトグラフ 1897年
《果物/花》リトグラフ 1897年
《桜草/羽根》リトグラフ 1899年
《つた/月桂樹》リトグラフ 1901年
《岸辺に咲くエリカ/砂浜に咲くアザミ》
リトグラフ 1902年

ミュシャが好んだビサンティン風の装飾が際立つこの図案は異国情緒が人気を呼び様々な商品にアレンジされました。印刷物はもちろん、彫像までつくられるという人気ぶり。

装飾パネルには21組のもや、41組みの4連作ものも人気をはくしコレクターも多かったといいます。

《四季》春・夏 リトグラフ 1896年

《四季》秋・冬 リトグラフ 1896年

《芸術》詩・ダンス リトグラフ 1898年

《芸術》音楽・絵画 リトグラフ 1898年

《花》カーネーション・百合 リトグラフ 1898年

《花》アイリス・薔薇 リトグラフ 1898年

《4つの時の流れ》朝の目覚め・昼の輝き リトグラフ 1899年

《4つの時の流れ》夕べの夢想・夜の安らぎ リトグラフ 1899年

《4つの宝石》トパーズ・ルビー リトグラフ 1900年

《4つの宝石》アメジスト・エメラルド リトグラフ 1900年

《四季》春・夏 リトグラフ 1900年

《四季》秋・冬 リトグラフ 1900年

《4つの星》月・北極星 リトグラフ 1902年

《4つの星》宵の明星・明けの明星 リトグラフ 1902年

広告ポスターの広告文字が取り除かれた作品が、装飾パネルに転用された商品は、こうして民衆のごく身近なものとして愛されていきます。

ミュシャの書籍

ミュシャの個人的な意志によって刊行された、書籍をここでご紹介。

『主の祈り』1899

挿絵入りの書籍『主の祈り』は1899年に510部限定で出版されました。7つの祈りをそれぞれ3ページで1セットにまとめ、祈りについてのコメントを装飾的な要素を加えながら編集されています。

「天にまします我らが父よ…」新約聖書マタイ伝によるもの。敬虔なカトリック信者であるミュシャの描く宗教画家としての一面なのです。

《主の祈り》表紙 1899年


『装飾資料集・人物集』1902

1902年、ミュシャはこれまでの装飾分野における自身の膨大な経験を『装飾資料集』として編集し刊行します。これは芸術や工芸に携わるデザイナー向けに新しい様式の作例やパターンを提供するもの。アール・ヌーヴォー風の室内装飾の集大成です。

『装飾資料集』表紙 1902年 

『装飾人物集』表紙 1902年 


『真福八端』1906

『真福八端』は1906年出版されましたが、もともとはアメリカのある雑誌のクリスマス特集号のために制作されました。ミュシャがボヘミアを旅した時に身近に見た祖国の農民たちの貧しさや苦しさに耐えて生きる姿を描いています。

マタイ〜ルカ伝のキリストが「幸福なるかな…」を繰り返す“山上の垂訓”がテーマとなっています。

《真福八端》幸福なるかな、心清き者 1906年

《真福八端》幸福なるかな、柔和なる者 1906年

《真福八端》幸福なるかな、柔和なる者 1906年

《真福八端》幸福なるかな、あわれみある者 1906年

《真福八端》幸福なるかな、義の為に責められたる者 1906年

ミュシャの象徴主義。そしてアメリカ。

2つの顏

ミュシャは油彩画家としてもその才能を遺憾なく発揮しています。1980年代《自画像》《パリスの審判》《女預言者》などを、また1900年以降も《ヤロスラヴァの肖像》《クオ・ヴァディス》《百合の聖母》など前近代的な作品を発表。

《花》油彩 1894年
《パリスの審判》万年カレンダー 油彩 1895年 個人蔵
《女預言者》油彩 1896年 ジリ・ミュシャ・コレクション

《自画像》油彩 1907年 ジリ・ミュシャ・コレクション

《自画像》油彩 1899年 ジリ・ミュシャ・コレクション

《ミュシャの2人の子供の肖像》油彩
1919年 ジリ・ミュシャ・コレクション
《息子イージーの肖像》油彩
1925年 ジリ・ミュシャ・コレクション

《ヤロスラヴァの肖像》油彩 1927-35年頃

《ミューズ》油彩 1920年
ゴットヴァルドフ美術館

これらの作品が今まで見て来たアールヌーヴォーの広告やパネルとは明らかに違っています。彼が“2つの顏を持つ画家”といわれるゆえんとは、こうことなんですね。

一般的には、ポスターのデザインやイラストの功績の方がはるかにインパクトがあったのですが、彼自身にとってはそれらはあくまで「生計をたてるための手段」であったようです。

《ポエジー》油彩 1894年 
堺アルフォンス・ミュシャ館
《クオ・ヴァディス》油彩 1904年 
堺 アルフォンス・ミュシャ館

ミュシャのオリジナル作品に見て取れる油彩の中には世紀末の象徴主義的な余韻を伴った作品が見られます。《百合の聖母》《クォ・ヴァディス》《ポエジー》《眠れる大地の春の目覚め》《燃えるロウソクを見る女》など、また先にご紹介した連作《四季》《朝、昼、夕べ、夜》は擬人化による愚意的な象徴主義に連なる作品です。

《ウミロフ・ミラー》油彩 1903-4年 
堺 アルフォンス・ミュシャ館

神秘好きの一面も持ち合わせていたミュシャ。象徴主義の絵画はギュスターヴ・モローのページでもご紹介しましたが、宗教画のコンセプトに独自の幻想世界で表現した、ファンタジックでもありオカルティックであることが特徴です。

アール・ヌーヴォーと象徴主義は、一見正反対にもとれますが、共存させていくミュシャにとってはごく当たり前の事だったのか、意外と違和感はありません。

当時象徴主義自体が、元来のアカデミスムとはまた違った新しい表現方法だったこともあり、宗教画や歴史画が時代の潮流や流行に影響を受けていたと言えますが、ミュシャもそこに感化されたのか独自にたどり着いたのか、とにかくアカデミスム脱却の動きはこの時代を反映させています。

《ハーモニー》油彩 1908年 堺 アルフォンス・ミュシャ館
《星》油彩 1920年 ミュシャ財団

ミュシャは世紀末のバラ十字会、神智学、オカルティズムなどにも関心が深く、名高いカミーユ・フラマリオン、コロネル・ド・ロシャらとアトリエで。霊媒を招き降霊術を試みたりもしました。

38歳の彼がが友人をつたって懇願し、フリーメイソンメンバーの一員になった事もなんだか彼の趣味趣向がうかがえる所ですね。

《眠れる大地の春の目覚め》油彩 1933年 ミュシャ財団

さて、広告デザイン作品とはまた違った、ミュシャのもう一つの顏、象徴主義的な絵画を晩年作品までいくつかお見せしたわけですが、次はまた少し戻った所からお伝えします。

実は20世紀目前を控えたころからミュシャの新しい構想がねられていました。20世紀に入り、着々と人生最大の課題に取りかかっていきます。

彼の故郷であるチェコの地、スラヴ民族の歴史とそれ以前の歴史にスポットをあてた連作、《スラヴ叙情詩》それは彼にとって生涯を賭けた大テーマでした。

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ミュシャとアメリカ

1904年ミュシャ44歳、初めてアメリカに渡りました。当時のアメリカではすでにサラ・ベルナールの仕事で彼は有名人だったそうです。

また、アメリカではアールヌーヴォー画家だけでなく、宗教画家としても高い評価を得ていました。《百合の聖母》はアメリカ時代に制作されたもの。

《百合の聖母》油彩  1905年 ジリ・ミュシャ・コレクション

彼にとって渡米の目的は、新たなマーケットの獲得、さらに構想中であったこれから晩年まで続く《スラヴ叙情詩》制作のための資金と人脈づくりという事でした。

彼は3ヶ月の滞在でニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、シカゴを回り、親交のあったロスチャイルド男爵家の紹介でルーズベルト大統領をはじめとする政財界の有力者と知り合います。そしてスラヴ文化と東欧政治に大きな関心を寄せるシカゴの大富豪、チャールズ・R・クレインと繋がります。5年後チャールズ・R・クレインは《スラヴ叙情詩》の強力なスポンサーとなるのでした。

メーソンメンバーのコネクションなのでしょうか。とんでもない人脈ですね。

これはアメリカの雑誌《ハースト・インターナショナル》の表紙。

『ハースト・インターナショナル』
表紙 油彩  1922年

『ハーストインターナショナル』
表紙 1921年

1908年にはニューヨークに建設されたドイツ劇場の内部装飾を手がけ、合計6回アメリカに滞在。娘のヤロスラヴァも1909年にニューヨークで生まれています。

ミュシャの女性観

ミュシャは“花と美女”の画家でした。世紀末のデカダン、ファムファタルタイプとは違い優美で気品豊かな令嬢タイプの、またエキゾチックなオーラ漂う女性。さぞや彼の生涯も華やかな恋愛遍歴にちがいないのでは…と思いきや…? 実際は女性不信、女嫌いだったそうです。

19世紀末はフェミニズム運動でありながら、アンチ・フェミニズムであった事もあり、時代の潮流だったのかもしれませんね。 ミュシャと関係が深かったの女性はパリ時代の恋人、ベルト・ド・ラランドと、スラヴ人のマルシュカ・ヒティロヴァー。記録としてはこの2人だけっだったそうです。結局故郷が同じスラヴ人のマルシュカと1906年に結婚しました。

《マルシュカの肖像》パステル 1903年 

《ベルト・ド・ラランド》パステル 個人像

奥さんはスラヴ人が良かったみたいですね。ちなみにこの時ミュシャ46歳。マルシュカは24歳。

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