ミュシャ「2つの顏を持つ画家」前編【画家】

緻密で華麗な線と、装飾的な様式で美女を多く描き当時パリではミスター・アール・ヌーヴォーと言われたアルフォンス・ミュシャ。故郷チェコを愛した偉大なアーティストです。

1860年7月24日、アルフォンス・ミュシャはモラヴィア(現チェコ共和国)のイヴァンチェンツェという小さな田舎町で生まれました。

裁判所に勤める公務員の父の下で育ったミュシャは首から鉛筆を常にぶら下げ、目に入ったものを手当たり次第描いていたという、根っからのお絵描き好きな少年だったといいます。

8歳の頃描いた《磔刑図》水彩 1868年ごろ

18歳で絵の道を志し、プラハの美術アカデミーを受験しますが不合格に。一年後ウィーンにある舞台装置の工房に就職します。しかし二年後、得意先の劇場が火事になってしまい会社の規模縮小によりリストラされてしまいました。

実家に戻る途中、偶然降りたミクロフという町の店の客に車内で描いたデッサンを見せるやいなや大評判に。たちまち地元の名士の肖像画の依頼が舞い込み、そのまま長期滞在。さらには大地主で貴族のクーエン・ベラシ伯爵とその弟エゴン伯爵に大変気に入られ、ミュシャの支援者となります。

それからの彼はパリでの美術学校で学業に専念。しかし数年後伯爵からの奨学金が断たれ、生活のため挿絵の仕事を始めることになったのでした。

ほどなくして人生最大の転機が訪れます。それは大女優サラ・ベルナールの仕事でした。

その事がきっかけとなり彼は一躍、世紀をまたいで一世風靡、“ベル・エポック”の寵児となります。

当時は女性をモチーフにした、装飾的でグラフィカルなアール・ヌーボー調のタッチが魅力の、ミュシャのデザインしたポスターはとても人気だったそうです。

彼の作品は78年の人生を終えた後でも多くのファンを魅了しつづけます。

熱烈な愛国主義者で敬虔なカトリック信者。そしてフリーメソンのメンバーであったと言われ、“象徴主義”の画家として、また写真や、装飾美術やジュエリーなどにも精通していたアルフォンス・ミュシャ。

ここでは、絵画、広告アートの作品を中心にご紹介します。彼の美しく華麗な作品の数々、見て行きましょう。

前編

衝撃のパリデビュー

挿絵の仕事

ミュシャはエゴン伯爵の支援の下、1885年25歳でミュンヘン美術アカデミーで学び、その3年後にはパリのアカデミー・ジュリアン、さらにアカデミー・コラロッシで習得していきました。

『ローマの火災を見つめるネロ』
1887年 フラデツ・クラーロヴェー美術館

しかし理由は不明ですが、30歳を目前に今まで手厚くサポートしてきたエゴン伯爵からの奨学金が打ち切られてしまいます。

彼はポーランドの画家スレヴィンスキーに下宿先を世話してもらいました。そこは若い芸術家たちのたまり場だった大衆食堂の上にあったので、刺激的だったそうで非常に感化されていきました。

親友ポール・ゴーギャンともここで知りあっています。

ミュシャは生計をたてるため小説や歴史書等の挿絵を仕事としながら食いつないで行いったのでした。

『アダミテ』スヴァトプルク・チェフ著1890年頃 ※出版は1897年
『アダミテ』スヴァトプルク・チェフ著1890年頃 ※出版は1897年
《犠牲》1893年 ドイ・コレクション

こちらはフランスの詩人で歴史小説家ジュディット・ゴーディエ『白い象の伝説』表紙から前編に渡ってミュシャの挿絵が掲載されています。

『白い象の伝説』表紙 ジュディット・ゴーディエ著 1894年
『白い象の伝説』挿絵 ジュディット・ゴーディエ著 1894年
『白い象の伝説』挿絵 ジュディット・ゴーディエ著 1893年
『白い象の伝説』挿絵 ジュディット・ゴーディエ著 1893年
《お伽噺》水彩 1896年

サラ・ベルナール

1894年、12月のクリスマス。ミュシャのもとに一件の急ぎの仕事の依頼が舞い込みます。

彼がたまたま手伝っていた印刷出版社に依頼があったそうで、その場にいたミュシャが手がける機会ができたというのです。挿絵の仕事がほとんどだったミュシャにとってそれは大チャンスの仕事でした。なんでもクリスマスの時期急仕事を受けられる人間がいなかったのだとか…。

その仕事というのは当時人気女優にして大スターであったサラ・ベルナールが主役を務める翌年正月公演の「ジスモンダ」のポスター制作。

 
《ジスモンダ》
リトグラフ 1894年
 
《ジスモンダ・アメリカツアー》
リトグラフ 1894年

あまりにタイトなスケジュール、そしてポスターの絵など描いた事がなかったミュシャでしたが、2つ返事でOK したそうです。

若い頃から劇場に慣れ親しんでいたミュシャ。12月28日に下絵を作り上げ、これを見たサラは一目で気に入り、徹夜の末1月1日に《ジスモンダ》を完成。この話には諸説あるようですが、偶然ながら巡って来たチャンスには変わりないようです。今も昔も変わらないもんですよね…納期のないスケジュール。

しかし、今の日本では年末年始、印刷屋さんは普通動いてないです。(苦笑)

とにもかくにもその完成度は高く、その存在感は見事なもの。たちまちパリ中で大評判となります。まったく無名だったミュシャがヒーローとして君臨する瞬間なのでした。

《恋人達》リトグラフ 1895年
《サラ・ベルナール》ラ・ブリュームの宣伝ポスター
リトグラフ 1896年

《椿姫》リトグラフ 1896年

《ロレンザッチヨ》リトグラフ 1896年

《ジスモンダ》で感銘を受けたサラはミュシャと6年契約を結び、自身の公演ポスターの制作を一任します。

サラは大女優として確固たる地位を築いていましたがミュシャのポスターが彼女の人気をいっそうあおり、そこに便乗する形でミュシャの知名度と評判も上がっていきました。

《サマリアの女》リトグラフ 1896年
《メディア》リトグラフ 1898年
《メディア》リトグラフ 1898年
《ハムレット》リトグラフ 1899年

サラはポスターを販売用に印刷。絵画より廉価で入るポスターに大衆は飛びつき、彼女は荒稼ぎしたそうです。商才もあったようですね。

パリ時代 I アール・ヌーヴォーの旗手

ミュシャの手がけた広告

《ジスモンダ》のブレイク以降ミュシャのもとには各所からポスター制作の依頼が殺到します。

お酒、自転車、ビスケット、タバコの巻き紙…。様々な宣伝用ポスターを描きましたがその画風には大きな特徴がありました。

《マギー》リトグラフ  1894年  

《リュッション》リトグラフ  1895年

《カッサン・フィス印刷所》 リトグラフ  1896年
《サロン・デ・サン第20回展》リトグラフ  1896年
《ロド》吹き付け香水 リトグラフ  1896年
《ジョブ》リトグラフ  1896年

《ルフェーヴェル=ユーティル ビスケット》
リトグラフ  1896年

《ルフェーヴェル=ユーティル》
シャンパンビスケット リトグラフ 1896年

《リュイナール・シャンパン》リトグラフ  1896年

《トラピスティーヌ酒》リトグラフ 1897年

《ムーズ河のビール》リトグラフ 1897年

それは画面の中心には商品そのものの絵ではなく、女性を溶けこませることで商品のイメージを強調させる。その手法が大当たりし、ミュシャのアートワークは人々を虜にしていきます。

《ショコラ・イデアル》 リトグラフ 1897年

《モナコ・モンテ・カルロ》リトグラフ 1897年 

《フォックス・ランド・ラム》リトグラフ 1897年 

《ブルー・デシャン》 リトグラフ  1897年

《ネスレの乳幼児食》 リトグラフ 1897年

ミュシャの個展ポスター

1897年、ミュシャは人生初となる個展を開催します。これは同年第2回目の個展のためのポスター。448点の大個展でだったそうで彼の名声はさらに上がっていったといいます。

《サロン・デ・サン》
ミュシャ2回目の個展ポスター  1897年

民族衣装と頭飾りはチェコ特有でミュシャ人気が高まると、そのエキゾチックな美しさから”ミュシャ”とは誰か?出身はどこだろう?と人々の関心を集めました。

そんな彼はこのポスターの中に自分尾ルーツを盛り込みます。少女の頭にモラヴィアの野に咲くひな菊を飾り、ミュシャはチェコのモラヴィアの人であることをさりげなく主張したんですね。

ハートとまわりの3つの輪は当時からいろいろな解釈で注目を集めました。あざみ、茨の輪、ハート はキリスト教的なシンボルですが、ミュシャにとってはスラヴ連帯の運動「ソコル」をあらわしており、ミュシャの描くハートはチェコの国の木、スラヴ菩提樹のハート形の葉をあらわしています。

1889年創刊された象徴主義寄りの芸術総合誌『ラ・ブリュム』での批評によると、ミュシャの少女は「典型的なスラヴ娘」で、その頭を飾るボンネットもスラヴ的な民族衣装の一部ということです。


 

《ウェイバリー自転車》リトグラフ 1898年

《モエ・シャンドン
グラン・クレマン・アンペリアル》
リトグラフ 1899年

《モエ・シャンドン
ホワイトスター・シャンパン》
リトグラフ  1899年

《ベネティクティン酒》 リトグラフ 1898年

《ビスケット・フラート》 リトグラフ 1899年

《ビスキー・コニャック》 リトグラフ 1899年
《吹きすぎる風は若さを奪いさる》
リトグラフ 1899年

リトグラフ ~化学の力を応用した19世紀の石盤画

ミュシャが《ジスモンダ》で世に出た1890年代は、美術作品としてのポスターが全盛期を迎えた時代。

シェレ、ロートレック、グラッセ、ボナールポスター画家として活躍し、誰もが気軽に鑑賞できる新しい芸術形態を浸透させました。その背景にあるのは「リトグラフ」の発明。

リトグラフとは、1798年、ドイツのアロイス・ゼネフェルダーが楽譜の印刷の為に開発した石版画です。平らな石に描いた図版を彫刻せずそのまま印刷できる画期的な技法でした。

ミュシャのリトグラフは大きい物で2メートル超の石盤に描いた図版があったそうですが、大量に流通した事で誰でも楽しめる新しい芸術として高く評価されました。手ごろに入手できる事から多数のコレクターがいたそうです。

雑誌と挿絵

ミュシャ雑誌コレクション

19世紀末から“雑誌”というメディアの黄金時代に入って行きます。ミュシャは雑誌の仕事を通じ、現代社会の多様性を学んで行きました。少しですがご紹介します。

特にミュシャが公私共に関係のあった雑誌『ラ・ブリュム』はサロン・デ・サン展を主催し、世紀末の作家や画家の社交場となります。

『リュリュス・トラシオン』 クリスマス号表紙 1896年

『ラ・プリュム』 表紙 1896年

『フィガロ・イリュストレ』 特別号表紙 1896年

『ル・ゴロワ』 クリスマス号表紙 1896年

『オ・カルティエ・ラタン』 表紙 1897年

この2点は挿絵として掲載。しかし、これも結構使い回し(?)しているみたい。

『レスタンブ・モデルヌ』 挿絵《サロメ》 1897年

『レスタンブ・モデルヌ』 挿絵《サランボー》 1897年

『オ・カルティエ・ラタン』 表紙 1898年

『ココリコ』創刊号  表紙 1898年

『ココリコ』4号  表紙 1899年

『ココリコ』 62号 表紙 1902年

『ル・モワ』 表紙 1899年

『パリ・イリュストレ』表紙 1903年

これは雑誌ではないのですが表紙デザインとしてのお仕事でした。

『アーヴィングパレス劇場のプログラム 』表紙 1903年

ミュシャ挿画本

『トリポリの姫君イルゼ』1897年

ミュシャの挿絵本は数多く存在しますが、ここで彼の仕事にして当時話題であった本をご紹介します。

エドモン・ロスタンが、サラ・ベルナールのために書いた劇《はるかなる姫君》をミュシャの挿絵入りで小説化。実際はRベール・ド・フレールが物語を書いたそうです。

ミュシャの装飾は神智学や、フリーメーソンの主題から引用したモチーフを使う事でより象徴的意味を帯びていきます。

『トリポリの姫君イルゼ 』表紙 1897年

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