モロー「神秘世界に棲む、幻想画家」【画家】

今までのアカデミスムにあった歴史画や聖書画の概念を覆し、聖書や神話を自身の幻想や想像の中で描いた作品を多く残したギュスターヴ・モロー。“象徴主義”の第一人者です。

ギュスターヴ・モローは1826年4月6日パリに生まれました。比較的裕福な家庭に育ったモロー。溺愛していた一才違いの妹カミーユは13歳で亡くなり、作品にはその妹の面影が見えるという声もあります。

1841年家族でイタリアに旅行した事がきっかけで彼は美術に目覚めます。それからはコレージュ(4年制のフランスの前期中等教育機関)時代にフランソワ=エドゥアール・ピコ のアトリエで絵を学び、1846年エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学。モローの本格的な絵の道が始まりました。

生涯独身で母と2人暮らし。小柄で繊細な神経、また博学で勤勉な画家であったモローは内向的で夢想家らしく、19世紀末を賑やかせた写実主義印象主義を嫌い、聖書やギリシャ神話をおもな題材として想像と幻想の世界を描いていきます。

50代中盤あたりから次第にサロンから遠ざかり、自宅に閉じこもり黙々と制作を続けたといいます。特に師に使える事なく、弟子を取る事もなく、どの芸術系譜にも属さず、孤高な芸術家として名を馳せていきました。

72歳死去までに残された彼の作品は油彩797点、水彩575点、デッサン7000

1852年から終生過ごしたその屋敷は、彼の遺言によりギュスターヴ・モロー美術館として公開されています。

神話や伝説を、あくまでも想像の世界を独特のタッチで描き、19世紀末の画家や文学者に多大な影響を与えたという象徴主義”の先駆者ギュスターヴ・モロー。ご案内します。

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ロマン派の巨匠との出会い

美術学校入学と退学

芸術への理解が深い両親のもと、1846年からエコール・デ・ボザール(国立美術学校)で学び始めモローは、ローマへの国際留学をかけて1848年と1849年の2回、ローマ賞のコンクールに挑戦しますが両方ともに落選。進路について迷っていました。

その頃のモローのヒーローはロマン派の大スター、ウジェーヌ・ドラクロワ。24歳の時にドラクロワを訪ね、このまま美術学校にとどまるべきかどうかアドバイスを仰ぎます。ドラクロワは、

「君は学校で何を教わりたいのだ。教師連中は何も知りはしないよ。」

この一言でモローの学校を辞める決心をします。また、もうひとりのロマン派の画家、テオドール・シャセリオーの壁画を見て、彼を師と仰ぐようになり頻繁に彼のアトリエに通います。

《自画像》1850年 油彩
ギュスターヴ・モロー美術館
《国王に毒を飲ませるハムレット》1850年
油彩 ギュスターヴ・モロー美術館
《ウツボに投げ与えられる奴隷たち》 1850年
油彩 ギュスターヴ・モロー美術館

シャセリオーはロマン派の詩人達、小ロマン派と親しかったので、モローもこれらの詩人達と知り合いになったようです。

その影響は、ギリシャ・ローマの古典や聖書的な世界、あるいはオリエントの異教的世界への憧れとなってあらわれます。

《キプロス島の海賊に略奪されるヴェネツィアの若い娘たち》
1852-54年油彩 ギュスターヴ・モロー美術館
《騎手》1852-54年 油彩
ギュスターヴ・モロー美術館
絵画におけるロマン派とは

18世紀末から19世紀前半の西欧で盛んだった芸術思想、またはその系譜に連ねられる作家や作品を総体的に名指す言葉。

それまでの啓蒙期のヨーロッパにおける古典主義、知性や合理性への信仰に対して感情や非合理性をたたえたもの。

さらにそれまで古典主義において軽視されてきたエキゾチスム・オリエンタリズム・神秘主義・夢などといった題材が好まれました。モローはまずこの潮流に惹かれていったんですね。

サロン入選と、師匠の死。

美術学校を去ったモローは父親のつてのおかげで国から何点かの発注を受けたりし仕事をこなしていきます。

そして1852年《ピエタ》でモローは初のサロン入選を果たしました。しかし本作は内務省がいささかためらった後、模写なみの安い値段で1951年に発注したもの。

サロン評ではおおむね良好でしたが、一部の批評家からはそこにドラクロワの著しい影響を感じ、まだ独自の世界が築かれてはいないと指摘されてしまいます。

《ピエタ》1854年 油彩 岐阜県美術館

落選作は《頭部の秀作》、《アルベラ(ガウガメラ)の戦いのあと、ギリシャの追っ手から逃れる途中で疲れ果て、泥水を飲むダレイオス》の2点。後者は手直しされ翌年のサロンで再度出品し入選を果たしますが買い手はつきませんでした。

代わりに同時に出した《シェラミの娘・雅歌》は国家買い上げとなります。この時の評価もドラクロワの影響を見る声が強かったのですが、ドラクロワ自身は否定。「むしろシャセリオーの弟子だ」と言ったそうです。

《アルベラ(ガウガメラ)の戦いのあと、
ギリシャの追っ手から逃れる途中で疲れ果て、
泥水を飲むダレイオス》1853年 油彩
ギュスターヴ=モロー美術館
《シェラミの娘・雅歌》1853年 油彩 ディジョン美術館
《アポロンと9人のミューズ》 1853年
油彩 ギュスターヴ・モロー美術館
《約束の地を目前にしたモーセ》1854年
油彩 ギュスターヴ・モロー美術館
《ミノタウロスに捧げられたアテネ人たち》1854〜55年 油彩
ナール・カン・プレス市立美術館

モローは新古典主義のアングルの弟子でありながらロマン主義のドラクロワの色彩に惹かれていた、シャセリオーに心酔し、彼のもとで進むべき道を模索しようとしていましたが……。

1856年、37歳という若さでシャセリオーは亡くなってしまいます。モローはこの事で社交性は一切無くなり、父親が購入したラ・ロシュフーコー街の屋敷に引きこもってしまいました。

摸写修業

モロー、イタリアへ。

引きこもりつつも幼なじみの友人かの義父から依頼された作品を制作(《ヘラクレスとオムファレ》から《アポロンと9人のミューズ》へ途中変更)しながら不満のたまっていたモロー。そんな彼は芸術家修業の王道であったイタリア旅行を思いつきます。

《ヘラクレスとオムファレ》 1857年
油彩 ギュスターヴ・モロー美術館

1857年9月、モローはピコのアトリエ時代の友人フレデリック・シャルロ・ド=クルスィーと共にローマに向かいます。

まずは、チヴィタ、ヴェッキア、ローマに滞在。ソドマ、ミケランジェロ、ジュリオ・ローマ、ヴェロネーゼ、ラファエロなどを手当たり次第模写して行きました。ローマでは留学中のエドガー・ドガと出会い親交を深めています。ドガの他、モローよりも年上の留学生達の教養の深さや彼らの模写の仕上がりは素晴らしく、モローも大きく影響を受けていきます。

翌年の6月にはフィレンツェへ。ティッツァーノ複製画に興味をもち水彩摸写します。途中家族と合流し共に9月から3ヶ月間ヴェネツィアへ。実は真に影響を受けたのはここでマンチーニャ、ベッリーニ、カルパチオの模写だったと言われています。

カルパチオの模写《聖ゲオルギススとドラゴン》1858年
油彩 ギュスターヴ・モロー美術館
ラファエロの模写《プットー》
1858年 油彩
ギュスターヴ・モロー美術館
プッサンの模写《ゲルマニクスの死》
1859年 油彩 ギュスターヴ・モロー美術館

翌年3月頃はまたフィレンツェへ戻り、ドガと共にウフィツィ美術館で摸写したり、またシエナやピサを駆け足でまわり、鉛筆や水彩でスケッチしていきました。4月はまたローマへ戻りニコラ・プッサンの《ゲルマニクスの死》、ルカ・シニョレッティ《フルミナーティ》の摸写などこれらは後のモローの作品に大いに役立つ事になります。

そして7月にはナポリへ。ナポリでは国立博物館でポンペイ出土の古代絵画や彫刻を夢中で摸写し、ヴェスヴィオ山にも登りました。

《フィレンツェの眺め》 1858年
水彩 ギュスターヴ・モロー美術館
《ヴィラ・ボルゲーゼ、ローマ》 1858年
水彩 ギュスターヴ・モロー美術館

1859年9月にパリへ帰還。このイタリア滞在の2年間の摸写修業の研究は、彼のフランスのロマン派の画風から脱却するきっかけをつかんだといわれています。

滞在中はほとんど創作は行っておらず《ヘシオドスとミューズ》をテーマにしたデッサンと四角い板をまるく区切って描かれた《アポロンとマルシャス》だけだそうです。

《ヘシオドスとミューズ》 1858年
黒チョーク、茶インク カナダ国立美術館
《ヘシオドスとミューズ》 1858年
黒チョーク、茶インク フォッグ美術館

新しい歴史画

スフインクスの意味

イタリアから帰国したモロー。それからしばらくした1964年、それまでは何も作品を発表することはなかった彼は万全を期してサロンに挑みます。作品《オイディプスとスフインクス》は好評で、ジェローム・ナポレオン公の買い上げとなりました。特にスフインクスの登場が注目されましたが、彼はそれが自分の「妄執(オブセション)」の一つであると明かしています。

《オイディプスとスフインクス》 1864年
油彩 メトロポリタン美術館

写実性を重んじたアングルが描いた《オイディプスとスフインクス》に対し、モローのスフィンクスはオイディプスにしがみついています。

「不思議な運命に導かれて人生の重大な局面にやってきた旅人は、自分を締め付け、苦しめる永遠の謎に出会う。だが心強き者は、ときに甘美で時に粗暴な攻撃にたじろがず、理想を見すえ、謎を踏み越えて、自信を持って目標に向かっていく」

モローの《オイディプスとスフインクス》は、つねに人間をおびやかす人生-(何の保証もなく、明日のこともわからず、危険を意識しながら、ひるんだり恐れたりしない、人生そのもの)のイメージが、男と女(スフィンクス)の対決という形で見事にあらわされています。

いわゆる“女性がたくましく挑発的で、男が美しく無力で受動的”に見えます。これが19世紀末に見られたヨーロッパの社会性を物語っている、と言われているのです。

《ヘシオドスとミューズたち》 1860年
油彩 ギュスターヴ・モロー美術館
《戦いの間歌うテュルタイオス》 1860年
油彩 ギュスターヴ・モロー美術館
《レダ》 1865年 油彩 ギュスターヴ・モロー美術館
《ペリ》 1865年 黒チョーク・水彩  シカゴ美術館

モローはまた1865年のサロンに出品。《イアソンとメディア》、シャセリオーに捧げた《青年と死》、1866年のサロン出品作品《飼い馬に喰い殺されるディオメデス》《オルフェウスの首を抱くトラキアの娘》などにより、さらに彼の世界観は明らかになっていきました。

《イアソンとメディア》 1865年 油彩 オルセー美術館
《青年と死》 1865年 油彩 フォグ美術館
《飼い馬に喰い殺されるディオメデス》 1865年
油彩 ボザール美術館
《オルフェウスの首を抱くトラキアの娘》 1865年
油彩 オルセー美術館

これらはいずれもギリシャ神話に主題をとった作品。国家買い上げになりモローの名声は大いに上がっていきますが、1862年モロー36歳時、理解者であった父親ルイは息子の成功を目にすることなくこの世を去りました。

歴史、神話画を越えて

美術界はそれまで主流だったアカデミックな流派の勢力に陰りが見えはじめ、古典主義の歴史画や宗教画が廃れていくように思われていました。

彼らに代わって、クールベらの写実主義が台頭し、その影響を受けたマネのまわりには、やがて”印象派”と呼ばれるようになる画家たちが集まり始めます。

そのような状況の中、モローは当初から歴史画の再生を目指し、反写実主義的で精神性を重んじた作品を制作していきます。

《ヴィーナスの誕生》 1866年 油彩 イスラエル博物館
《声》 1867年 水彩
ティッセン・ボルネミッサ美術館
《キマイラ》 1867年 油彩 フォグ美術館
《アンドロメダ》 1867年 油彩
ギュスターヴ・モロー美術館

これらの絵画において特徴的だったのはモローが歴史的、神話的な主題を取りあげつつも、古典的な歴史画とは違いました。ロマン主義絵画とも一線を画します。一般的に歴史画というのは、人物がまとっている歴史的・神話的コスチュームにもかかわらず、それは常に「現代風俗の絵画」です。いわゆる現代風俗画を歴史や神話に例えた表現、ということなんですね。

これに対して、モローの絵画は神話、歴史画を彼の空想で表現されるファンタジックな世界。それは緻密で具体的なタッチで表現された、抽象表現の絵なのでした。

「あなたは神を信じますか?………私は自分が手に触れるもの、眼に見えるものも信じない。私は眼に見えないものだけを信じ、心に感じるものだけをひたすら信じる。」

《エウロパと牡牛》 1868年 油彩
ギュスターヴ・モロー美術館
《旅する詩人》 1868年 油彩
ギュスターヴ・モロー美術館

モローはこのようにして、アカデミー歴史画や神話表現を離れていった事で、サロンの批評家達から酷評されることになります。

下は1869年のサロンに自信を持って出品した《エウロパの誘惑(ユピテルとエウロパ)》《プロメテウス》です。《エウロパの誘惑(ユピテルとエウロパ)》はメダル獲得はするものの大酷評。2点とも買い取り先はなくモローのもとへ。以降、モローの1876年までサロンへの出品はありませんでした。

《エウロパの誘惑(ユピテルとエウロパ)》
1868年 油彩 ギュスターヴ・モロー美術館
《プロメテウス》1868年 油彩
ギュスターヴ・モロー美術館
《父なるアポロンの許しを去り世界を照らしにゆくムーサたち》
1868年 油彩 ギュスターヴ・モロー美術館
《ペルセウスとアンドロメダ》 1867-69年 水彩 個人蔵
《ヘシオドスとミューズ》
1870年 油彩 ギュスターヴ・モロー美術館
《ヘラクレスとヘルネの沼のヒドラ》
1870年 水彩 ギュスターヴ・モロー美術館
《サッフォーの死》 1870年 油彩 個人蔵
《キリストと2人の盗人》 1870年 油彩
ギュスターヴ・モロー美術館
《セイレーンたち》 1872年 油彩
ギュスターヴ・モロー美術館
《ディアネイラ(秋)》 1872年 油彩
ギュスターヴ・モロー美術館
《シンファロス湖でのヘラクレス》
1872年 油彩 ウスター美術館
《サッフォー》 1870年 水彩
ビクトリア・アンド・アルバート美術館
《妖精とグリフォン》 1875年 油彩
ギュスターヴ・モロー美術館
《妖精とグリフォン》 1876年 油彩
ギュスターヴ・モロー美術館
《妖精とグリフォン》 1876年 水彩
ギュスターヴ・モロー美術館
《ステユムバロク湖のヘラクレス》
1875年 油彩 ギュスターヴ・モロー美術館
《パーズィ・ファエ》 1876年 水彩
ギュスターヴ・モロー美術館

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