マティス「色彩を解放した画家」後編【画家】

フォーヴィスム革命の最も代表的存在、アンリ・マティス。一貫して絵画における色彩表現の意味と役割を追求した彼の芸術への概念。それは自分の作品自体が「装飾的」な構成であり、そして見る人々にとっては「精神の疲れを癒す良き肘掛け椅子」であることでした。

マティス「色彩を解放した画家」後編

後編

マティスの探求

モロッコの青い空

42歳マティスは、1月から4月、また9月から翌年の2月にかけ、2度に渡り妻アメリー、そしてアルベール・マルケと共にモロッコのタンジールに滞在し、制作を行いました。ホテルにこもった彼は、《アイリスの花瓶》《窓外風景》を制作。ジブラルタル海峡を隔ててヨーロッパと対峙するタンジールの風物はマティスの創作意欲を多いに駆り立てます。

《アイリスの花瓶》1912年 プーシキン美術館
《窓外風景》1912-13年 プーシキン美術館
《カズバの門》1912-13年 プーシキン美術館
《テラスのゾラ》1912-13年
プーシキン美術館

ほれぼれするような青の作品《窓外風景》《カスバの門》《テラスのゾラ》はモロッコ三部作と言われた名作です。


滞在中に描かれたのは静物の他、民族衣装をまとった男女や風景等、植民地主義が展開する現実の歴史から切り離された、西欧が思い描く「素朴」でエキゾチックな趣きのオリエンタリズムを引き継ぐ主題でした。この二度のモロッコ滞在時、フォーヴの仲間であるシャルル・カモワンと合流、またマルケ、ヴァン・ドンゲンといった画家たちも前後して同地を訪れています。

画家達のモロッコへの感心は、北アフリカにおける西欧の植民地主義の展開を背景にした、19世紀のオリエンタリズムの流行の中で高まっていたのでした。

《座るリフの男》1912-13年
フィラデルフィア、バーンズ財団
《アラブのコーヒー》1913年
エルミタージュ美術館

翌年、それらの作品はベルネーム=ジュネ画廊で発表されます。北アフリカの空気が感じ取れる清明な画面は、激しい色調を基調としていた“野獣派”画家マティスの新たな方向を打ち出したと言えます。

第1次世界大戦

モロッコ旅行のあと、とりわけ第1次世界大戦前後からマティスは描き直された跡をとどめる、極めて抽象度の高い、しばしば黒や暗色を基調とした作品群を制作しています。そしてキュビズムの画家や批評家たちとの交流や、キュンビズムや前衛芸術を後押しした画商レオンス・ローザンベールとの関わりは、マティスに大きく影響をあたえたようです。一種の流行潮流であったので、他の画家にも観られる実験的な考えもあったのかもしれませんね。

1914年8月、大戦が勃発した時、マティスは《イヴォンヌ・ランスベール嬢の肖像》を仕上げたばかりでした。

《イヴォンヌ・ランスベール嬢の肖像》1914年
フィラデルフィア美術館

1913年秋のサロン・ドートンヌに出品された《マティス夫人の肖像》について詩人で評論家のギョーム・アモリネールが「マティス芸術の新時代を画している」と賞賛したそうです。

《金魚鉢のある室内》1914年
パリ国立近代美術館
《マティス夫人の肖像》1913年
エルミタージュ美術館
《オレンジのある静物》1913年 
ピカソ美術館
《金魚とパレット》1914年
ニューヨーク近代美術館
《ノートルダムの眺め》1914年
ニューヨーク近代美術館
《開かれた窓 コリウール》1914年 
ジョルジュ・ポンピデゥーセンター国立美術館
《川辺で水遊びをする人々》1916年 
シカゴ美術研究所

1914年から翌年にかけ、5点のフォーマットの異なったマグリットの上半身の像を描いています。この2作は縞模様が共通しますが、《白とバラの頭部》はキュビスム的な表現を思わせます。

《縞のジャケット》1914年 ブリジストン美術館
《白とバラ色の頭部》1914年
パリ国立近代美術館

《デ・ヘームの〈食卓〉に基づく静物》は、モローの指導によって1983年に自ら描いたヘームの忠実な模写を買い戻し、それを基に描いた物です。これもキュビスム的な要素が指摘されている作品です。

《デ・ヘームの〈食卓〉に基づく静物》1915年
ニューヨーク近代美術館

1916年《ピアノレッスン》を制作。この作品は孤独な創造者としてのマティスと、彼に課された矛盾をはらんだ難問とを象徴しています。彼の作品である《装飾的人体》《高い腰掛けの女》が、右上と左下に描かれています。これは装飾性と精神性をひとつに統一するという二元性を表しているそうです。

《ピアノレッスン》1916年
ニューヨーク近代美術館

さらに翌夏《音楽のレッスン》を描きます。これは画家一家の家族の肖像が写し出されています。戦車で戦場に向かった次男ピエール、飛行機工場に勤労動員されていた長男ジャン、そして兵士に送るために編み物をしているマティス夫人。

《音楽のレッスン》1917年
フィラデルフィア、バーンズ財団

ニースへ

画家のアトリエ、画家とモデル

1917年末期、激しさの増す戦況のさなかマティスは南仏へ。その光に引き止められてニースで制作を始めました。そしてこれ以降、彼は生涯南仏を制作の主要な拠点とします。マティスの「初期ニース時代」への転換期とも言える、自らの制作を問い直すかのような制作の現場をテーマにした主題は「より一般的に好まれる自然主義的な様式」でした。

《自我蔵》1918年 マティス美術館
《アトリエの画家》1916年
ジョルジュ・ポンピデゥーセンター国立美術館
《サン=ミッシェル河岸のアトリエ》1916-17年
ワシントン フィリップス・コレクション
《バイオリンのある室内》1917-18年
コペンハーゲン国立美術館
《白い羽帽子》1919年 ミネアポリス美術館
《画家とモデル》1919年 個人蔵
《赤い傘を持つ女性》1919 – 21年 個人蔵
《ギリシャのトルソーのある静物》1919年
サンパウロ美術館
《ニースの室内、緑の服の若い女》1921年 個人蔵
《金魚鉢の前の女》1921年 シカゴ美術館
《モロッコ風衛立の前の娘たち》1922年
フィラデルフィア美術館
《蓄音機のある室内》1924年 個人蔵
《インテリア、花とインコ》1924年
ボルチモア美術館

この時期、大戦中不足していた職業モデルをあえて探し求め、ロレットというイタリア人モデルを起用しています。これまでもマティスは断続的に職業モデルを起用し制作していましたが、それは最晩年まで続けて行く事に。

このロレットの起用は、オリエンタルな衣装やモチーフに使われたインテリアなどで描かれた女性像とそのコンセプトは、後の「オダリスク」シリーズへと受け継がれて行きました。

《イタリアの女》1916年
ニューヨーク、グッケンハイム美術館
《3人姉妹》1916年 オランジェリー美術館
《ターバンの女》1917年 バルチモア美術館
《ロレッタの頭部とコーヒー・カップ》1917年
ゾーロトゥルン美術館
《横たわるロレッタ》1916-17年 個人蔵

これはロレットをモデルにした3姉妹の3連画です。

《「バラ色の大理石のテーブル」のある3姉妹》1917年
フィラデルフィア、バーンズ財団
《灰色の背景の3姉妹》1917年
フィラデルフィア、バーンズ財団
《アフリカ彫刻のある3姉妹》1917年
フィラデルフィア、バーンズ財団
最初のバレエ装飾の試み

マティスは1919年、セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ)の装飾を担当しています。中国を舞台にしたアンデルセン童話を原作とする《ナイチンゲールの歌》で、イーゴリ・ストラヴィンスキー作曲、レオニード・マシーンの振り付けで。1920年に初演されました。マティスはこの時、内容に因んだ東洋風のデザインとともに、非常に単純な幾何学的形態を用いた衣装をデザインしており、制作原画としては、後にご紹介する“切り絵”に繋がる手法もすでに用いています。

オダリスクたちのハーレム

南仏の陽光の下で再発見した女性の肉体の美しさをカンヴァスに移した《オダリスク》。《オダリスク》に代表されるマティスの初期ニース時代の作風は、伝統の復権を求めると同時に、高まる植民地主義を背景にエキゾチックな趣味が流行する大戦後のフランスの公衆には大変歓迎されました。

最初の重要な作品《赤いキュロットのオダリスク》はオリエンタリズム絵画を支持し、国立リュクサンブール美術館館長のレオンス・ベネディットにより買い上げられました。

《赤いキュロットのオダリスク》1921年
国立近代美術館
《マグノリアの花とオダリスク》1923-24年 個人蔵
《装飾的人体》1925-26年 パリ国立近代美術館
《タンバリンのあるオダリスク》1925-26年
ニューヨーク近代美術館
《灰色のキュロットのオダリスク》1927年
オランジェリー美術館

《オダリスク》の主題は模様のある面と身体のボリュームを画面空間で折り合わせる造形的な課題をなすと同時に、性的な魅力をはらんだ女性モデルを舞台衣装的なコスチュームとセットで、流行潮流に沿った主題としても描く方法だったといいます。

《トルコの椅子にもたれかかるオダリスク》1928年
パリ近代美術館
《2人のオダリスク》1928年
ストックホルム近代美術館

装飾の仕事、壁画と挿絵

1930年、マティスはタヒチ行きを思い立ちます。途中立ち寄ったニューヨークの光の輝きを彼は「非常に純粋で、非部質的で、水晶のような光」と呼んでいます。「底の深い黄金の杯を覗きこんだようだ。」と感激したタヒチの珊瑚礁や自然の中で写真を撮り、デッサンを行いました。

バーンズの壁画

帰国しまもなく、カーネギー国際賞の審査員として再びアメリカを訪れたマティスは、アルバート・C・バーンズからの依頼により、フィラデルフィア郊外、メリオンの美術館の壁画の制作に着手しました。マティスにとっては大規模で本格的な仕事となったといいます。

《ダンス》1932-33年
フィラデルフィア、バーンズ財団

マティスはこの壁画に再び《ダンス》を主題としてとりあげます。バーンズの壁画は窓の上部のヴォールト天井を穿つ3つのリュネットを連ねた壁面と言う難しい条件でした。「見る人に飛翔感、上昇感を与える」という目標のもと制作されたこの壁画は、2人の人物がからみあう躍動感あふれる作品となっています。

『マラルメ詩集』と『ユリシーズ』

そして平行して1932年には出版者アルベール・スキラの依頼により、『マラルメ詩集』の挿絵を制作。



さらにアメリカの出版者ジョージ・メイシーの依頼で、ジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』のための6点のエッチングを制作しました。

《『ユリシーズ』(J・ジョイス)より》1934年 

壁画と挿絵の仕事は、いずれもマティスにとって造形と表現に大きな転換をもたらしたそうで、1935年制作の《ピンク・ヌード》に大きくその影響があると言われています。

これは今までの作風とは異なり、平面的で単純化された伸びやかな線と形態による新たな作品。この絵の制作過程は写真に収められ後に批評家ロジャー・フライによって書籍の中で掲載されたのでした。

《ピンクヌード》1935年 ボルチモア美術館

壁画の注文がなかった時期は、マティスはタペストリーの原画を手がけました。《タヒチの窓I、II》《森の中のニンフ》など。

《タヒチの窓 I》1935年 個人蔵
《タヒチの窓 II》1936年 マティス美術館
《森の中のニンフ》1936-42年 マティス美術館

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