マティス「色彩を解放した画家」前編【画家】

フォーヴィスム革命の最も代表的存在、アンリ・マティス。一貫して絵画における色彩表現の意味と役割を追求した彼の芸術への概念。それは自分の作品自体が「装飾的」な構成であり、そして見る人々にとって「精神の疲れを癒す良き肘掛け椅子」であることでした。

マティスは1869年 12月31日、北フランスのル・カトー=カンブレジ生まれ。高等中学校を終えた後は1年間パリで法律を学んだ後、法律事務所の見習いとして働きますが仕事に出る前の時間、カンタン・ラトゥール美術学校のデッサン教室に通い始めます。もともとこの地方はテキスタイルが盛んで、彼の通ったデッサン教室はテキスタイル・デザイナーを養成する所だったといいます。マティスはここで装飾図案の感性を養い、すでにテキスタイルやタぺストリーへの趣向を広げていたということになりますね。

マティスは20歳の時、虫垂炎にかかり1年ほど病床に。彼の画家への目覚めはこの時だったそうです。

1891年にパリへ出たマティスは、独特な作風を持ち学生に寛容だったギュスターヴ・モローを師と仰ぐようになります。モローの愛弟子であったジョルジュ・ルオーとは生涯の親友となりました。そして1905年マティスは、彼独特の画風、表現で作品をサロン・ドートンヌで発表。モーリス・ド・ヴラマンクアンドレ・ドランらと共に“フォーヴ(野獣派)”と呼ばれることになったのでした。

それからのマティスは一貫した色彩表現を追求、没頭していきます。晩年期、72歳時に腸閉塞の手術を受けた後、寝たきりの彼がたどり着いたのは「切り紙絵」でした。

1954年11月3日マティス死去。享年84歳 

「芸術とは人を喜ばせたり気持ちよく感じさせるためにある」

独自の信念のもと制作を続けた「色彩の魔術師」とも言われたマティスは20世紀芸術に大きな実りをもたらした偉大な画家のひとりです。

彼の絵画や切り絵は、時々センスの良いインテリアやファッション雑誌等ににさりげなく登場したりしています。そんなマティスのお洒落な作品の数々、見て行きましょう。ご存じない方もきっと見た事のある作品あると思いますよ。

前編

パリ、画家への出発

ギュスターヴ・モローとの出会い

1891年、パリへ出たマティスは美術学校に先立って私塾でもあるアカデミー・ジュリアンでウイリアム・ブグローの教室に入りました。最初の授業でマティスは遠近法を知らない事と、木炭を直接指で拭き取ってしまったことでブグローから「そんなことでは到底デッサンは上達しない」と叱られてしまいます。

翌年、官立美術学校であるエコール・デ・ボザールを受験しますが不合格に。この頃のマティスは実家から100フランの仕送りで生活。

そんな両親は彼に「お前はひどく貧乏になるよ」と言ったといいます。

《本のある静物》1890年 個人蔵

1892年末、マティスはそエコール・デ・ボザールの聴講生として“象徴主義”の画家ギュスターヴ・モローの教室にはいりました。

モデルを「冷静に把握し」アカデミーで教えられた説明的な手法や意図的な操作を使ってデッサンするマティスにモローは象徴主義によってみ直された反写実的な“内面的デッサン”を勧めます。

まもなくマティスは、モデルの写実的把握アラベスク文様への嗜好の統一、すなわち観察と理想的“曲線美”との調和を図ろうとするようになるのでした。

こうした、二元性はその後常に古代作品に影響されつづけたところにも表れていると言われています。

《静物(デ・ヘームの「デザート」を基に》1890年 マティス美術館

モローは生徒一人ひとりの中に学校も、教師も、さらに彼自身も思いつかないような芸術観を持つ探求者の姿を発掘していました。

当時の美術界では保守的なアカデミスムも新興のプレネリスム(外光派)もともに古典の研究を軽んじていましたが、モローは学生たちをルーブルに導き、巨匠の絵からいかに学ぶかを教えていきます。

マティスはモローのアトリエで、アンリ・マンギャン、アルベール・マルケ、シャルル・カモワンそしてジョルジュ・ルオーらと友人になります。

《ギュスターヴ・モローのアトリエ》1894-95年 個人蔵

屋外への欲求

そんなマティスは1893年、カロリーヌ・ジョブローという若い女性と同棲し始め、翌年には娘マグリットも生まれました。

1895年4月、マティスは念願の美術学校エコール・デ・ボザールにやっと入学を果たします。

その夏、アパートの隣人エミール・ヴェリの誘いでブルターニュ地方のベリールやブーゼ・カップ・シザンへ写生旅行に出かけました。

マティスは翌年もエミール・ヴェリと家族で、ブルターニュ地方、ラ岬やポンタヴェンを訪れています。

1896年の春、サロン・ナショナルに出品した《読書する女性》が国家買い上げの栄誉に。さらに会長のシャヴァンヌの推挙でサロン・ナショナルの準会員へと順調な出世を遂げる道が約束されたのですが、その頃新しい絵画路線に興味を抱いていたマティス。翌年のサロン・ナショナルに出品した《食卓》が印象派風作品として非難されてしまいました。

この事がきっかけとなり、マティスはアカデミスムから離れ、近代画家へ足を踏み出していったそうです。

《読書する女性》1895年 パリ国立近代美術館
《シルクハットのある室内》1896年 マティス美術館
《メイド》1896年 個人蔵
《ブルーポットとレモン》1897年
エルミタージュ美術館
《食卓》1897年 個人蔵

苦悩するマティス

自由なマティス

1897年、マティスはモローの勧めで5年間の勉強の総まとめとも言える作品を制作、そして国民美術教会のサロンに出品しました。白いテーブルクロスに施された青や紫色などの色彩で表現された影や光。あきらかに印象派の影響が見て取れるそれに、マティスは初めて批判を受け動揺します。

「自分はやはり間違っているのだろうか」

マティスはこの年、ギュスターヴ・カイユボットが国家に遺贈した印象派コレクションの一部が公開された展覧会をカミーユ・ピサロと見に行きました。マネやドガ。セザンヌ、モネ、ピサロ、シスレ…。また、この年3回目のブルターニュ旅行、ベル=イルでモネやゴッホとも親交のあったオーストラリア人画家ジョン・ラッセルと知り合いました。これらの経験はマティス自身が選んだ道の正しさを確信させたといいます。

マティスはこの頃学校から遠ざかって、いろいろと模索を繰り返していました。夏休み中に描いた田園風景と野外にの空気にありふれた労作を山ほどもちこみましたが、モロー先生に尻を叩かれたといいます。やがてまもなくモローは老齢のためと、学校に不満もあり辞めてしまいました。

《画室の裸婦》1898-99年頃 ブリジストン美術館
《フルーツとコーヒーポット》1899年
エルミタージュ美術館
《サイドボードとテーブル》1899年 個人蔵
《オレンジのある静物》1899年
ワシントン大学アートギャラリー

またこの時期マティスはカロリーヌと別れてしまいます。しかし、翌年98年アメリー・パレルという女性と結婚しました。

マグリットは、終始マティスのモデルを務め、将来は父親の秘書役になったそうです。

コルシカ島で

マティスはピサロの勧めで夫婦でロンドン、そしてコルシカ島のアジャクシオに向かいます。

「目が眩むようだった。すべてが輝き、すべてが色と光なんだ」コルシカ島に渡ったマティスは後にこう言ったそうです。

《コルシカの日没》1898年 個人蔵
《アジャクシオの水車》1898年 マティス美術館

ここでのマティスの続けた制作は実験作とも言える物で、友人のエヴェヌプールは驚いたといいます。

あれほど「灰色の絵に造詣が深く」、「まれにみる力強い調和」を特徴とする達人と見られていた彼が、「猛々しい狂ったような印象主義」と呼ぶにふさわしい、この「激しい絵」を描くとは!

1899年、ポール・シニャックがまとめた『ウジェーヌ・ドラクロワから新印象主義まで』という論文が雑誌に掲載。その論文の中でマネ、ルノワール、モネ、ピサロ、スーラ、セザンヌと続く色彩画家の系譜を受け継ぐものとしてマティスは自分を位置づけていたといいます。この年、長男ジャンが誕生しました。

《最初のオレンジ色の静物》1899年
パリ・ポンピドゥーセンター国立近代美術館

マティス暗黒期

99年パリに戻ったマティスは再び学校に通い始めますが、モロー後任の座をめぐる騒動に巻き込まれ他のモローの弟子らと共に学校から閉め出されてしまいました。いくつかの美術学校を転々、そしてアカデミー・カミロで出会ったマンギャン、カモワン、ドランらとともにデュト街にあったビエットのアパートに仕事場を移しました。同時にアカデミー・コラロッシに通い、「早描きの裸体の習作」を繰り返し制作。

《裸体の男》1900年 ニューヨーク近代美術館
《ハルモニウムのある室内》1900年
マティス美術館
《テーブルの上の食器》1900年
エルミタージュ美術館

マティスはモロー教室の級友に連れられ、ロダンのアトリエを訪ねたり、さまざまな実験に取り組みつつヴォラールをはじめとする先鋭的な画廊を巡り歩きます。ヴォラール画郎ではセザンヌの《3人の浴女》、ロダンの石膏の胸像、ファン・ゴッホのデッサン、ゴーギャンの《ティアレの花をもつ少年》を次々と購入。

しかし、彼と妻メアリーは経済的困窮に。友人マルケとともに観光客向けの絵を売ったりしますが、長くは続かず。ついに1900年のパリ万博のために建てられたばかりのグランパレでの装飾仕事を始めます。時給1フランで9時間。これも続かず一週間で首になってしまします。困窮な中、この年次男ピエールが生まれています。

《リュクサンブール公園》1901-2年
エルミタージュ美術館

1901年ゴッホ回顧展でドランからモーリス・ヴラマンクを紹介されます。マティスはこ2人にに多いに刺激されていきました。そしてますます過激な方向へ向かっていきます。

この3人は後にご紹介する“フォーヴィスム”の主唱者となります。

同年の春、サロン・デ・ザンデバンダンに10点荒い筆致で描いた作品を出品しましたが、結果サロン開催中批評家たちはマティスの作品を激しく攻撃。彼の習作を「ばかげた」作品とか「汚点」などと罵倒するのでした。作品は一点も売れなかった上、まともな方向に行ってなかったマティスに、彼の父親は仕送りを打ち切ってしまったのでした。

1902年の春に再びサロン・デ・ザンデバンダンに出品。今度は静物画を400フランで売る事ができました。しかしこの年から翌年は、マティス一家はますます困窮状態は悪化するばかり。ジャン、ピエールをボエンの両親やトゥールーズのアメリーの実家などに預けたりしました。さらに1900年以来、妻のアメリーはシャトーダン街に帽子屋を開いていましたが両親の死亡、そして詐欺事件に巻き込まれ、廃業に追い込まれてしまいます。

《夕方のノートルダム》1902年
オルブライトノックスアートギャラリー

1903年マティスはセーヌ県庁の「貧者の権利管轄観」の職にも応募しますがこれも失敗に終わります。収入を得る望みを完全に絶たれたマティスはついに絵を諦めることも考えたそうです。「できる事なら私は絵を犬にでもくれてやりたい。」

この年の6月からは約半年間、実家のあるボエンの近郊レキェル=サン=ジェルマンという村で過ごしました。

《カルメリーナ》1903年 ボストン美術館
《屋根裏のアトリエ》1903年
フィリップ・ウイリアム美術館

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