アジェ「古きパリの写真家」【写真家】

古きパリの魔術師、近代写真の先駆者といわれたウジェーヌ・アジェ。19世紀末から20世紀初頭の消滅しつつあるパリの風景を記録した偉大な写真家です。

この頃の、近代芸術潮流にも影響された写真界の誰とも交わる事無く独自の世界に生き、パリという都市の克明なポートレートを写真に残していきました。

ジャン・ウジェーヌ・オーギュスト・アジェ。1857年2月フランス南西部ボルドー近郊のリブルヌに生まれました。

幼くして両親を亡くし母方の祖父母に育てられ、祖父の考えで神学校に通いますが、中退してしまい商船の給仕になりヨーロッパ各地、北アフリカ,南米までを見て行きます。

20歳を過ぎた頃、彼は演劇を志して地方巡業の役者になりまが10年後、演劇の道を挫折。

それからのアジェは芸術家たちのモチーフとなる写真を撮って売り始めます。

当時のヨーロッパは産業革命以降、猛スピードで移り変わっていった時代。1897年頃からは方針を変え、古き良き風景が失われて行く時代のパリを、写真に記録していきました。

晩年、最愛の妻に先立たれたアジェは孤独と失望の日々を1人過ごし翌年の1927年8月4日、70歳で永眠。

19世紀の世紀末から、20世紀にかけ41歳から約30年間にわたって残した写真はおよそ8,000枚。

“ベルエポック”といわれるフランス、パリの失われていく文化と美しい風景を写真に収めた写真家ウジェーヌ・アジェ。 彼の美しい写真の数々を、ぜひご覧ください。

演劇の道

旅回り役者として

1878年、21歳のアジェは演劇を志し、パリへ出ました。音楽家や俳優を養成する学校フランス国立高等演劇学校 (コンセルヴァトワール)を受験しますが落ちてしまい、兵役につきます。

翌年は同学校に入学。学業と兵役が両立できなかったアジェは結局81年には中退することになりました。

アジェ自身この年役者としてデビューし、大成功を収めたと語っていますが、記録によるとその役は他の役者が演じていて、アジェの名は残っていないそうです…。

演劇を諦めきれなかった彼は1882年兵役を終えた後、パリに戻り国立美術学校の近所に住み始めます。そして生涯の親友となる演劇人アンドレ・カルメットと出会いました。

2人は絵画に大変興味をもち、画家のアトリエを訪ね歩いたといいます。その後、彼は地方巡業の劇団で俳優活動を始めたのでした。

演劇活動を続けて行く中アジェは29歳時、生涯の伴侶となる女優ヴァランティーヌ・ドラフォス(ジュヌビエーヴ・ヴァランティーヌ・コンパニヨン)と出会い、巡業を活動を共にします。彼女は彼の10歳年上で、8歳になる息子がいました。

アジェは1898年に劇団を解雇。一説によると喉の疾患のためとも言われてますが……演劇界を去る決心をします。

その後1897年から1902年までの間のヴァランティーヌは女優さんとしてかなりの名声を得ていて、有名だったそうです。

写真家として

写真のはじまり

演劇活動に終止符を打ったアジェは、失意のうちに北フランス、ピカルディ地方ソンムに移住します。彼が写真を始めたのはこの頃からだといわれています。

用いた撮影機材は組み立て式の暗箱カメラで18×24cmの一般的なもの。ガラス乾板を使用しレンズボードを上下にチルトできるものでした。

《ラ・ロシェルの船》1896年
《ひまわり》1896年

1890~91年頃、パリに戻りアジェは最初は画家になろうと試みました。41歳のアジェが描いていたのは風景画で印象派風の木を描いた油絵画が残されています。

しかしその才能が無い事を自覚した彼は簡単に諦めてしまいます。

そこで自分のアパートのドアに「芸術家のための資料」と題した看板を掲げ、植物、動物、風景など、芸術家たちのモチーフとなる写真を売りはじめるアジェ。彼は生活のために写真をはじめたようです。

1892年2月の『ルヴュ・デ・ボザール』誌には次のような記事が掲載されました。

「読者のみなさんに写真家アジェ氏をご紹介します。パリのラ・ビティエ街の5番地で、芸術家の為の次のようなものを撮影しています。風景、動物、花、歴史的建造物、資料、画家のためのモチーフ、絵画の複写、出張します。これらの写真は商店では取り扱っていません。」

しかし、当時の芸術家たちはそれら絵画的主題にはあまり興味を示しませんでした。

理由としてはのその頃、写実主義から大きく変化し始めた芸術表現は、印象派や、フォーヴィスムなどが盛んになってきており、そんな近代美術の潮流には、写真素材はもはや必要ではなかったからです。

この彼の発想は20世紀を目前にした時代としては典型的な19世紀の発想と言うしかなかったと言えます。

良き時代のパリの記録

という事もありアジェは1897年頃に、写真家業の方針を変更します。彼自身で写真によるパリのコレクションを始めたのです。

アジェが見てきた都市、19世紀のパリの古い部分が失われて行くのを目の当たりにして、写真により記録していこうと決意します。

しかし、やり方はやはり典型的な19世紀的発想、記録の方法だったのでした。

《甘草水とアイスクリーム売り》1899年
《傘売りの男》1898-99年
《野菜の水切り、籠売り》1899年
《大道の手回しロルガン弾き》1898-99年
《郵便配達夫》1898-99年 カンドール街
《ランプシェード売り》1898-99年 ルピック街
《アイスクリーム売り》1899年 エドモン・ロスタン広場
《指人形芝居を見る子どもたち》1899年 リュクサンプール公園
《道アミアン》1900年以前
《モンターニュ・サン・ジュヌヴィエーヴ》1898年

アジェは1899年10月15日にモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール街17番地乙に拠点を置きました。ここが生涯の家となりあます。そしてこちらに引っ越してきた翌日16日、89年から撮りためてきたパリの写真100枚をパリの歴史図書館に売却。

《 ユージンズ・ストリート》1900年
《旧医学校プーシェリー街》1899年
《住宅、シュジェール通り13番地》1900年
《ポントワーズ、グラン・マルトワ広場》1902年
《コルセット》1900年頃
《ヴァンドルザンヌ小路 ビュット・オー・カイユ》 1900年
《ホテルマルク・デ・ラグランジュ 4&6区、ブラック通り》1901年
《ベルサイユ宮殿》1901年
《ベルサイユ庭園》1901年
《ベルサイユ庭園》1901年
《ベルサイユ宮殿》1901年
《ベルサイユ庭園、大トリアン、アフリカヌスの胸像》1902年
《ベルサイユ宮殿》1903年 10月
《シェルシュ・ミディ監獄、シェルシュ・ミディ街37番地》1904年
《サン・ジェルヴェ・エ・ブロテ》1904-05年
《オーストリア大使館ヴァレンヌ街57番地》1905年
《リヨン大司教館、サンタンドレ・デザール通り58番地》 1900年
《ポン・ヌフ》1902-03年
《ローザン館》1904-05年
《ジュヌル・バック、ラブレ・グレゴワール街12番地》1904年
《フルーリー館、サンベール街28番地》1905年
《ベネディクト会の旧修道院、サンジャック街269番地》1905年
《サンジャック兄弟の旧館、サンジャック街254番地》1907年

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