キャパ「戦場の写真家」後編【写真家】

20世紀は写真の時代と呼ばれました。各地での戦争は絶える事はなかった、そんな時代の記録写真を撮り続けたロバート・キャパ。2次大戦後、普通のカメラマンとしての仕事もこなし、彼は名声を得ますが結局戦場に戻って行きます。世界で最初に死の瞬間を撮った戦場カメラマンであり、彼の生きた時代の人間の息吹を数多く記録した偉大な写真家です。

戦場の写真家」ロバート・キャパ 前編

後編

第2次世界大戦

出発アメリカへ

1939 年世界は2度目の世界大戦へ突入しました。そしてフランスとイギリスはドイツに宣戦布告。ハンガリーからの亡命者だった彼は外国人収容所に入れられるのを避け、9月アメリカ合衆国へ。

キャパは翌年にアメリカでの永住権を得ました。しかし、彼は敵性外国人とみなされ戦場への派遣の許可は降りなかったといいます。  

しばらくアメリカでは広告や作家や俳優の写真の仕事に着手。1940年にはメキシコに数ヶ月滞在し大統領選を取材したりしました。

1941年にはアイダホ州サンバレーへで“パパ”との愛称で親しいヘミングウェイのもとを訪れて撮影しました。この頃愛用のカメラはコンタックスII  

1941年 アメリカ、アイダホ州
アーネンスト・ヘミングウェイと息子グレゴリー

 やっと、戦争ジャーナリストとして 2次大戦の最中『コリアーズ』の特派員として大西洋護送船団に乗り込みロンドンに入ります。1941年4月の事です。しかし最前線には行けず……。

1941年 大西洋 米国から英国に向かう
連合軍護送艦の一部である
キュナード貨物船のデッキ
1941年 大西洋 
米飛行機7台、魚雷艇2台が移送
1941年 大西洋 米国からイギリスに向かう
連合軍船の船団
1941年 大西洋 キュナード貨物船の船長
1942年 イギリス アメリカの爆撃機の前で
放牧されている牛
1942年 イギリス アメリカのB-17爆撃機
1942年 イギリス アメリカのB-17爆撃機
1942年 イギリス アメリカのB-17爆撃機
1941年 イギリス、ロンドン
1941年 イギリス、ロンドン
ウォッチコート・ストリート
1941年 イギリス、ロンドン
ウォッチコート・ストリート ギブス家
1942年 イギリス、ロンドン
部隊が養子にした戦争孤児たちとアメリカ軍兵士
1942年 アルジェリア、
コンスタンティヌス 301爆撃隊の男たち
着陸装置を破壊されていた
爆撃機だったが、無事に着陸

ロンドンではピンキー(イーレーン・ジャスティン・ロマイン)という恋人ができました。しかし彼女は人妻でした……。

また、キャパはよくカードギャンブル、ポーカーで遊んでは負けていたそうです。撮影のギャラを突っ込んでは負けていたそうですよ。お父さんに似たんでしょうかね……。

ようやく巡ってきた戦場取材

キャパはやっと巡ってきた最前線の仕事でまた戦場に戻って行きます。1943年3月から5月にかけては北アフリカ戦線でのチュニジア。イタリアのアフリカ侵攻とそれを援護するドイツ軍と連合国軍。

1942年 チュニジア
捕獲されたドイツの戦車を
調べているアメリカの兵士
1942年 チュニジア アメリカ軍装甲部隊と
捕獲したドイツの戦車
1943年7月 イタリア半島の侵略までの数日前に、
ガフサ(チュニジア)と

リカタ(シチリア)の間で軍隊や物資の輸送
1943年7月 輸送船の甲板で
1943年 チュニジア 熱砂の戦場
1943年 チュニジア 熱砂の戦場
1943年 チュニジア メハリスト軍
1943年 チュニジア ドイツ軍の銃と弾薬が
アメリカの兵士によって捕獲されました
1943年 チュニジア ドイツ軍戦闘機の残骸

7月はイタリア戦線、シチリアでの連合国軍の上陸作戦。シチリア〜ナポリ〜カッシーノ。次第にキャパは連合国軍と共に最前線へ。  

1943年 シチリア島 モンレアーレ
アメリカ軍を歓迎する市民
1943年 シチリア島 アグリジェント
1943年 シチリア島 モンレアーレ
大歓迎をうけて入城するアメリカ軍
1943年 シチリア島 アメリカ軍戦車が進撃。
1943年 シチリア島 捕虜となった
ドイツ兵の手当をするアメリカ兵
1943年 シチリア島 パレルモ
1943年 シチリア島 パレルモ
1943年 シチリア島 トロイーナ
1943年 シチリア島 トロイーナ
1943年 シチリア島
トロイーナ アメリカ軍偵察部隊
1943年 シチリア島 トロイーナ 
ドイツ軍の向かった先を
アメリカ将校に教える農夫
1943年 シチリア島 トロイーナ 
1943年 ナポリ、イタリア 
時限爆弾によって破壊された
ドイツ鉱山郵便局
1943年 ナポリ、イタリア 
ナポリの解放中に
アメリカ軍を歓迎する群衆
1943年 ナポリ、イタリア
ナポリの解放中のアメリカ軍

悲劇的なシーンの代表格。「ナポリの惨劇」と呼ばれいます。

1943年10月、ドイツ軍に破壊尽くされたナポリの市街では一部のレジスタンスがドイツ軍残党とし壮烈な戦いを挑んでいました。

その中の若い青年20人が犠牲になりました。黒衣の女性たちに囲まれて棺が次々に運ばれてきます。

母親や、祖母と思われる女性たちが嘆き悲しむ姿が写し出されています。

1943年 ナポリ ドイツ軍との戦闘で命をおよした
10代のパルチザン兵20名の葬儀
1943年 ナポリ 
10代のパルチザン兵20名の母親たち
1944年 カッシーノ、イタリア 
フランス軍救援部隊の運転士
1944年 カッシーノ、イタリア

キャパの戦争写真は、あまり派手な戦争場面はありません。苦しむ民衆や最前線で命を賭ける兵士たち。それは戦争の悲惨さをもっと世界に知らせたいという彼の衝動。そしてそれは前へ前へと彼を突き動かしていくのでした。  

マグニフィセント・イレブン

アメリカ人はそれを「マグニフィセント・イレブン」(偉大なる11枚)と呼びました。

1944年6月、300万人もの連合国兵士がイギリス海峡を渡り、ドイツに占領されたフランス奪還のためフランスへ上陸した史上最大の作戦。ノルマンディ上陸作戦。この第一陣に同行したカメラマンはキャパのみ。    

1944年 フランス、ノルマンディー沖で
アメリカ軍隊はオマハビーチを襲撃する前に、
派兵船から着陸船に乗り換えた
1944年 フランス、ノルマンディー海岸
上陸するアメリカ軍部隊

キャパのフイルムはすぐに『LIFE』ロンドン支局へと届けられました。しかし乾燥を急いだフィルムは熱でゆがみ36コマ4本が損壊。11枚のネガだけが助かります。そう、それが「マグニフィセント・イレブン」(偉大なる11枚)

しかし、…ブレブレ現像後の写真になってしまいました……。    

1944年 フランス、ノルマンディー海岸
上陸するアメリカ軍部隊

「その瞬間激しい興奮が写真家キャパの手をふるわせ、写真にブレが生じた」 キャパはこれに大激怒、ブチキレしたんだとか。(苦笑)

この頃のジャーナリストたちのフィルム現像事故はめずらしくはなく、報道会社の現像する人々が馴れないアルバイトだったりして失敗もよくあったのだそうです。

けれども、今でもキャパのその写真は戦場の迫力を伝える最高傑作と言われているんですよ。  

1944年 フランス、オハマビーチ
上陸後オマハビーチで陸上に上がる
1944年 フランス、オハマビーチ
死者を埋葬するドイツ人捕虜
1944年 フランス、オハマビーチ アメリカ人墓地の開設
ジープを祭壇に見立ててミサを執り行う司祭
1944年 フランス、オハマビーチ
米軍に捕らえられたドイツ軍
1944年 フランス、シェルブール アメリカ軍によって捕獲されたドイツ兵士
1944年 フランス、オハマビーチ 
オマハビーチの殺害された米兵の
死体を見ているフランス人の漁師たち

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