キャパ「戦場の写真家」前編【写真家】

20世紀は写真の時代と呼ばれました。各地での戦争は絶える事はなかった、そんな時代の記録写真を撮り続けたロバート・キャパ。2次大戦後普通のカメラマンとしての仕事もこなし、彼は名声を得ますが結局戦場に戻って行きます。世界で最初に死の瞬間を撮った戦場カメラマンであり、彼の生きた時代の人間の息吹を数多く記録した偉大な写真家です。

ハンガリーの首都ブタペストでキャパは生まれました。少年時代にカメラに触れたキャパは、第二次世界大戦の記録写真で一躍有名に。やがてアメリカ国籍を取り、戦後は日本でも復興時の写真を収めています。そして彼はまた戦場へ。インドシナ戦争の戦場記録撮影に向います。

1954年5月25日。地雷を踏み死亡。享年40歳。

「僕は写真家じゃない。ジャーナリストさ」写真の芸術的気取りを嫌ったというキャパ。しかし彼の命をかけて撮った写真は人々の心を打った芸術以上の作品だと言えます。

究極のドキュメンタリー写真の数々を残した写真家。ロバート・キャパをご紹介します。

出展 © 2014 Magnum Photos   http: //www.magnumphotos.com

前編

旅立ちのエンドレ

カメラを手にした少年

1913年10月22日ハンガリーの首都ブタペストで生まれたロバート・キャパ。本名フリードマン・エルネー・エンドレ。(ハンガリーではファミリーネームは日本と同じ先)婦人用洋飾店を営むユダヤ人家庭の次男として生まれました。

1913年 生後まもないエンドレ
1917年 家族写真 一番右がエンドレ

母ユリアは、かなりやり手の婦人服仕立て屋の経営者。そして裁縫師であった父親デジェーは、カードギャンブル好きな楽天家。流行のデザインをどんどん取り入れては顧客を広げて行く母親のおかげで、一家は中流以上の生活が成り立っていたと思われます。12歳のころ、同じアパートに引っ越してきた、裕福な家庭の三姉妹の末娘のエーヴァ・ベシュニェーと知り合いになりカメラに初めて触れる事となります。それはコダックブローニュ2a

そのころ、廉価版のカメラとはいえ、そうめったに少女が手にできるものではありません。2人は写真を撮りによく市内を歩き回ったそうです。エーヴァは後のキャパにカメラの手ほどきをしてくれた最初の人物です。

ベルリン

エンドレは17歳学生時、『ムンカ(労働)』という雑誌に出会います。『ムンカ』は詩人にして画家のラヨシュ・カッシャークが主宰する雑誌。彼は当時のハンガリーで最新の芸術運動を指導した社会主義者でした。

カッシャークは友人モホリ・ナギ とバウハウスのデザイン運動、シュルレアリスム、ジャーナリスティックな写真運動などの面で、ヨーロッパ各地で大きな影響力があり、ブタペストではその運動が政府への反抗勢力結びついていました。

彼は次第に当時10代の若者も大量に参加したと言われる労働者運動にのめり込んで行きます。

やがて秘密警察にも目を付けられてしまい逮捕されてしまいます。父の奔放によって釈放されますが、国外退去という条件により、翌年17歳になったエンドレは1931年ベルリンへ出発するのでした。

ベルリンでは政治の専門学校に入学しますがなかなかなじめず。さらにこの1929年の世界恐慌でブタペストにも大きく影響し1931年、フリードマンの服飾店は閉店を余儀なくされてしまいます。そしてエンドレへの仕送りはストップされてしまったのでした。

そこで先にベルリンで写真の道に進んでいたエーヴァ・ベシュニェーをたずねたエンドレ。エーヴァの写真の師匠であったジェルジ・ケペッシュとも交流を深め、18歳の彼にカメラを譲ってくれるのでした。その時彼が最初に手に入れたカメラは、フォクトレンダー

写真通信社「デフォト」

とりあえず、エンドレは生活するために仕事を探します。たまたまユダヤ系教会の集会の関連で知り合った、ブタペスト生まれのジモン・グッドマンが経営する「デフォト」という写真通信社で、暗室係助手として雇われる事に。キャパの報道カメラマンの人生はここがスタート地点という事になります。

そして1932年ベルリンでは、アドルフ・ヒトラーのナチスと、共産党が血みどろの街頭演説を繰り広げたあげくナチスが圧勝。

この頃、ユダヤ系のエンドレは恐怖と隣り合わせのベルリン生活だったと言えます。

そんな19歳になったエンドレに、仕事のチャンスが巡ってきます。デンマークのコペンハーゲンに行き、革命家レフ・トロッキーを撮影して来るようにとグットマンからの指示です。このとき手渡されたカメラは、ライカI型

ロシア革命の指導者だったトロッキーは権力争いにやぶれ、姿を隠していましたが突然コペンハーゲンで学生に向け演説するとの事。当時のボックス型のカメラが禁止(銃器を隠す可能性があるので)されていたため新聞社や通信社がは入れない中、エンドレは上着のポケットに35ミリの小型カメラ、ライカを忍ばせ、群衆に紛れ込みシャッターを切りました。

1932年 コペンハーゲン レオン・トロッキーの講演

それはもう大手柄のエンドレ。ソビエトの現状に対して怒りをあらわにしたトロッキーの演説の、かれの姿を収めたのはエンドレ以外誰もいなかったのです。グッドマンは大喜びで『デア・ヴェルト・シュピーゲル』誌に掲載されたのでした。

誕生、ロバート・キャパ

芸術の都、パリへ

1933年いよいよ、ヒトラーは首相に就任。ナチス政権からのユダヤ人迫害危機を感じたエンドレもさすがにベルリンを離れなければならず、一度はハンガリーへ戻りますが芸術の都パリへ向かいます。

1933年 ハンガリー 狼使い、馴れた狼
1935年 スペイン、セビリア フェリアのお祭り

パリ、モンパルナスのヴァヴァン十字路の「カフェ・ラ・ドーム」は作家、芸術家、役者、写真家それぞれ日夜、集っていた交流の場所。エンドレはそこでワルシャワ出身のシムと出会います。

シムは後に、デビッド・シーモワとなり、エンドレと友人アンリ・カルティエ=ブレッソンと共にと“マグナム”を結成する親友となりました。

他に、アンドレ・ケルテス、ブラッサイなどの写真家にも出会い交流を深めています。

翌年、同じくベルリンからパリに逃れてきたジモン・グッドマンからモデルを使った広告写真のアルバイトをエンドレに持ちかけられました。この頃の使用カメラはブラウベル・マキナII

彼はカフェで一人の女性をナンパしますが、その女性が撮影当日つれて来た女性と意気投合します。その娘の名はゲルダ・ポホリレス(タロー)

2人はドイツの出身で、ゲルダもユダヤ系の家柄だったため、ヒトラー政権から逃れるためにパリにやって来たのでした。

1935年 フランス、パリ 
ゲルダ・タロー フレッド・ステイン撮影
1936年 フランス、パリ ゲルダ・タロー
1936年 スペイン、 ゲルダ・タロー

それからゲルダとは恋人同士に。そして事実上マネージャー件助手となりました。1935年にはグラフ雑誌『ヴュ』と契約。パリはもちろんザール地方のルポルタージュ、またスペインでの仕事を引き受けていきました。

1935年 スペイン、セビリア
聖週間の行列を見物する人々。復活祭。
1935年 スペイン、セビリア
聖週間大会参加の女の子。
1936年 フランス、パリ 子どもたち
1936年 フランス、パリ 子どもたち
1936年 5月 フランス、パリ メーデーにて
1936年 6月 フランス、パリ
ストライキの工場の座り込みへ陣中お見舞いに。
1936年 6月 フランス、パリ ストライキ中、
屋上で憩うギャラリー・ラファイエット
百貨店の従業員
1936年 5月 フランス、ブリーニュ・ビアンンクール 
座り込みストライキの初日
ルノーの工場で眠る労働者
1936年 11月 スペイン、ヴェルダン
第一次世界大戦20周年を記念する
平和集会に参加したドイツ代表団
1936年 10月 フランス、パリ
人民政治集会
1936年 11月 フランス、パリ
第一次世界大戦休戦記念日の
パレードを見物する人々
1936年 11月 フランス、パリ
第一次世界大戦休戦記念日で
行進する元軍人たち

架空の人物ロバート・キャパ

1936年、アリアンスというパリの通信社で定期の仕事にありつけました。2人はこれで生活も安定。これを期に各所に写真作品を送り、売り込み、営業を始めます。

そこで、エンドレとゲルダはある作戦を思いつきます。

それは「ロバート・キャパ」なる魅惑的、かつ大成功を収めたアメリカ人写真家をつくりあげる事。この頃の「ロバート・キャパ」とは存在しない人物。エンドレとゲルダの2人で写真を撮りますが、(ゲルダは次第にエンドレの仕事に憧れ、自らも写真の道にのめり込んで行きます)キャパは架空の人物だったようです。

エンドレはキャパのアシスタントで、ゲルダはマネージャーという設定。さらにゲルダはゲルダ・タローと名乗ります。(タローは当時パリに留学中であった岡本太郎からだという説も)やがて2人は「キャパ&タロー」というユニット名で仕事を始めました。この頃のゲルダのカメラはローライフレックス

その頃スペインでは、共和国政府に対しファシスト党の援助を得たフランシスコ・フランコ将軍らが反乱を起こし、国を二分する内乱が起き戦争が勃発。スペイン内戦です。

1936年8月 スペイン、バルセロナ
アラゴン戦線へ向かう兵士たち
1936年8月 スペイン、バルセロナ
アラゴン戦線へ向かう軍用列車
1936年8月 スペイン、バルセロナ
アラゴン戦線へ向かう軍用列車
1936年 8月 スペイン、バルセロナ
軍用列車発車前別れを告げる共和軍兵士
1936年 8月 スペイン、バルセロナ
訓練をする共産主義者の女性民兵
1936年スペイン、バルセロナ
少年はスチール大隊のメンバー、
アントニズムの民兵、だそうです
1936年8月
スペイン、バルセロナ
1936年8月 スペイン、バルセロナ
バリケードの準備にかかる共和国軍派の女兵士
1936年8月 スペイン、バルセロナ 共和国民兵
1936年8-9月 スペイン、バルセロナ 

1936年8月、2人はグラフ誌『ヴュ』の仕事のためにその戦場に出発します。そこで見たものは彼が初めて体験した本物の戦争でした。兵士ばかりでなく、女、子どもまでが被害にあっている悲惨な現状。さらに2人は危険な最前線へ。

1936年9月 スペイン、コルトバ戦線
塹壕から身をのりだして構える共和国民兵
1936年 9月 スペイン、コルトバ戦線
塹壕を飛び越える共和国民兵
1936年 スペイン、アラゴン戦線
攻撃する共和国民兵

エンドレはそこで《敵弾に崩れ落ちる義勇兵》をカメラに収めます。

この写真は、アメリカのグラフ誌LIFEの1937年7月12日の号に転載された際に撮影者の名前に「ロバート・キャパ」と記裁。この名が一躍知られることとなります。このとき、エンドレは23歳。この写真がきっかけで、エンドレ=キャパという図式が早くも認識されてしまい、エンドレはロバート・キャパと正式に名乗る事になりました。

1936年9月 スペイン。セロムリーノ、
コルドバ 敵弾に崩れ落ちる義勇兵 
1936年8月〜9月 スペイン、アラゴン戦線
女共和国民兵
1936年8月〜9月 スペイン、
アラゴン戦線 共和国民兵
1936年8月〜9月 スペイン、
アラゴン戦線 共和国民兵
1936年10月〜12月 スペイン、マドリッド
国際旅団のメンバー
1936年11月〜12月 スペイン、マドリード
ドイツ軍空爆の後
1936年 8月〜9月 スペイン、マドリード 
ロシア人警察官がファシストの
役人または警察官を尋問
1936年11月〜12月 スペイン、
マドリード 国際旅団の義勇兵
1936年 11月〜12月 スペイン、マドリード
前線の後方でくつろぐ共和国軍兵士
1937年11月〜12月 スペイン、マドリード
首都西郊外の大学キャンパス内また
はその周辺の国際旅団のメンバー
1937年 2月 スペイン、マドリード
付属病院の周囲に築かれた共和国軍の土塁
1936-37年  スペイン、マドリード
ドイツ軍空爆の後

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