マン・レイ「光で描く写真家」【写真家】

写真家、美術家、映像監督、シュルレアリスム作家。そしてダダイスト、マン・レイ。20世紀ではもっとも多才なアーティストの1人です。「美の冒険者」「美の実験者」といわれる、彼の個性と才能でさまざまな表現様式が生み出されました。

マン・レイは1890年フィラデルフィア生まれ。早くから画家を志し、1914年ニューヨークでヨーロッパの新しい芸術潮流に触れ衝撃を受けました。そしてニューヨーク・ダダに参加し積極的にアヴァンギャルド・ムーブメントの潮流に乗ります。

31歳時エコール・ド・パリ一色だったパリに移住。1924年に公表されたアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」の運動にも大きな力となります。第二次世界大戦中はハリウッドに逃れ、戦後はパリに戻りほとんど絵画制作で余生をすごしました。

86年の生涯を閉じるまで、次々に多彩な作品を生み出し続け、その制作活動の幅は写真、絵画、オブジェ、水彩、素描そして実験的な映画まで多岐にわたります。

独特の技法で確立した前衛的写真表現から、ファッション写真や肖像写真にも卓越した技量を発揮したマン・レイ。

その20世紀に残した軌跡を、写真家マン・レイとして、写真作品を中心にご紹介します。

画家をめざしたマン・レイ

最初の師

マン・レイ、本名エマヌエル・ラディンスキー。1890年、ロシア系ユダヤ人の移民の長男としてフィラデルフィアに生まれます。洋服好きな母ミーニャと、服飾工場で働く父メラック、そして1人の弟と2人の妹という家族構成。父と同じく夢想家だった彼は、幼少時代から芸術家的才能に目覚め、14歳のときのボーイズハイスクールで美術に情熱を傾けるようになったといいます。

1908年、当時のニューヨークでもっとも先鋭的だった場所は写真家アルフレッド・スティーグリッツエドワード・スタイケンの開いた5番街の「291ギャラリー」。ヨーロッパの近代絵画などを紹介し、絵画と写真の表現様式の垣根を崩す事に取り組んでいました。

エマヌエルはスティーグリッツの近代芸術的「独立、分離」思想に多大に刺激されます。また彼が影響を受けたのは、1912年秋から通い始めたフェレール・スクールの美術講師ロバート・ヘンライ。

「芸術家魂のある者なら、あらゆる表現方法を会得し、それを自由に駆使できるようにしなければならない。芸術の表現様式は様々である。人間は誰でも多かれ少なかれ芸術家であり、その割合は本人の成長度で決まる。」

スティーグリッツとヘンライは、エマヌエルにとっての最初の師のような存在となりました。彼はまずキュビスム的な要素の入った作品制作を開始。

また1913年にはマルセル・デュシャンフランシス・ピカビアが参加した「アーモリー・ショー」でヨーロッパ・アヴァンギャルドの作品に触れ、モダンアートへの知識を深める事になっていきます。

エマヌエルの結婚

1913年、友人画家サミュエル・ハーバートと一緒にニュージャージー州の片田舎リッジフィールドに移住、広告デザインの仕事をしながらキュビスム風の風景画を制作します。

《村》1913年 イスラエル博物館
《恋人たち》1914年 

この年、フランスの詩人アドン・ラクロア(ドンナ・ルクール)という女性と出会いました。エマヌエルはベルギー生まれのブロンドのその女性と恋に落ち、翌年1914年に結婚します。彼女を通じはランボーやロートレアモンなど様々な文学を知ったのでした。また、アドンとは『様々な書き方』というアドンのテキストにカリグラフィを施した本を自費で出版します。

《ギターを持つアドン・ラクロワ》 
《アドン・ラクロワ》 
結婚を機に、エマヌエルはマン・レイと改名 この頃、ラドニッキー家は姓を「レイ」に変更しました。当時、民族差別やユダヤ人差別が一般的に流行っており名前を変えたそうです。母のマーニャはつねにアメリカに同化しようと努力していてゲットー化したユダヤ人居住区をつとめて避けていたほどだったといいます。 と、いう事でラドニッキー(Radnitzky)を略して(Ray)としました。エマヌエル(Emmanuel)は普段は短くマニーと呼ばれていたので。(Man)それでマン・レイ(Man Ray)という訳なんですね
《AD1914(戦争)》1914年
フィラデルフィア美術館
《ダニエル画廊個展カタログ案》1915年 

1915年、マン・レイ夫妻はニューヨークに戻り、レキシントン通りに移り住みます。この年絵画やドローイングの初個展をニューヨークのダニエル画廊で開催しました。

親友マルセル・デュシャンとの出会い

マン・レイはマルセル・デュシャンと知り合います。アメリカでは当時誰もがヨーロッパの事を話題にし、パリからの最新情報や評論を探し求めていた時代。マン・レイはデュシャンのラディカルなスタイルに大いに衝撃を受けました。

デュシャンとの友情はその後、生涯に渡って続く事になります。

1916年にはフランシス・ピカビアマルセル・デュシャンと共にニューヨーク・ダダムーブメントに参加。この時マン・レイが描いた油彩画《女綱渡り芸人はその影を伴う》はデュシャンの《彼女の独裁者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称大ガラス)に影響された作品でした。

《彼女の独裁者たちによって
裸にされた花嫁、さえも》1915年
《女綱渡り芸人はその影を伴う》1916年
ニューヨーク近代美術館

この頃、デュシャンらに大きく影響されたマン・レイ。それはもう制作意欲は旺盛。1917年にはアエログラフ、他にアッサンブラージュ(立体作品)やクリシェ・ヴェール(ガラス印刷版)も試みました。

《音楽家》クリシェ・ヴェール 1917年 
《鳥かご》アロエグラフ1919年 

しかし……翌年頃からアドンとの関係に陰りが出始め、1919年別居してしまします。


1915年頃からマン・レイは新たな表現、「写真」に向かい始めます。

スティーグリッツは、機関誌『カメラワーク』というラディカルな雑誌を刊行していました。その雑誌には、写真という新しい技術の真価をめぐり、熱い討論が繰り広げられていました。「写真は芸術ではない」と言い放ったメキシコの画家マリウス・デ・ザヤスの写真批判には、マン・レイも衝撃と刺激を与えました。

「私は撮る事が不可能なものを描き、描けないものを撮る」

彼のこうした言葉は、表現手段をひとつに決める事ができなかった事への弁明のように思えます…。しかし、クリエイターならわかる気がしますね。

写真家としての出発

1921年デュシャンとの共作映画を制作、さらには前衛雑誌『ニューヨーク・ダダ』を刊行します。マンレイが撮影したデュシャンの女装写真《ローズ・セラヴィ》を表紙に掲載しました。

《ローズ・セラヴィの表紙》1921年 
《ローズ・セラヴィ》1921年 
《マルセル・デュシャン》1921年 

その後、デュシャンはパリに向かいます。離婚していたマン・レイもすぐにパリへ。この時彼はすでに写真家になる事を決意していたのだそうです。最初はマン・レイの写真は他の芸術家作品の記録係としての出発だったということのようですよ。

《ニューヨークのアトリエ》1918-19年 

パリへ

1921年7月にパリに移住。この時代はエコール・ド・パリ真っ盛り。31歳のマン・レイはモンパルナスに住み、本格的に写真に傾倒していきます。

《マイナ・ロイ》1918年 
《女》1920年 
《コート掛け》1920年 
《不安》1920年 
《埃の培養》1921年

パリの街並み、風景写真も多く残しています。ここでは少しご紹介。

《パリの大観覧車》1921年 
《歪んだ家》1924年 
《コンコルド広場》1926年 
《パリ》1926-27年 
《モンマルトル/ムーラン・
ド・ラ・ギャレット》1930年 
《サド街アンティープ》1936年 
《南仏の路地》1938年

パリでは、デュシャンを通じパリのダダイスト達と知り合いました。また、最初の個展が詩人フィリッポ・スーポーの書店で開催されましたが、そこでエリック・サティと知り合います。

彼は英語を流暢に話したためか個展開会の日の午後遅く、サティとカフェで交流を深め合います。そのうち刺激されたマン・レイは帰る途中、金物屋に行き、サティの通訳のもとアイロンと鋲を買い、《贈り物》を速攻制作し展示に加えたそうです。

《贈り物》はダダ的ユーモアに満ちたオブジェとして有名です。酔った勢いも捨てた者ではありませんね。(笑)

《贈り物》1921年 

この《贈り物》は写真におさめた後、その日のうちに姿を消しています。マン・レイのオブジェのほとんどは写真に撮る為に作られていて、以後は壊されたり捨てられたりしたそうです。《贈り物》はその後約5000個(生涯で)製造されて300ドルで売られたそうです。

それからのマン・レイはパリでダダ〜シュルレアリスム的アート写真、またヌード写真を多く撮影しています。それではその傑作の数々をご覧ください。見た事のある写真きっとあると思いますよ。

《カザティ公爵夫人》1922年 
《涙(ナターシャ)》1930年
《涙(ナターシャ)》1930年
《理性への回帰》1923年
《祈り》1930年
《無題》1930年
《長い髪の女》1930年
《接吻》1930年
《頭部》1931年
《水泳帽のメレット・オッペンハイム》1930年
《ヴェールをつけたエロティック
/メレット・オッペンハイム》1933年
《ジャクリーン・ゴダード》1930年
《鏡と古典的な頭部》1932年 
《アコーディオン》1932年
《ポール・エリュアールの
『ファシール』のために》1935年 
《スペースライティング》1937年 

レイヨグラフ

1922年にかけて、マン・レイは新たな発見をします。それは後に「レイヨグラフ」と呼ばれますが、暗室で印画紙の上に物体を置き一瞬電気を着け感光させそれがシルエットとして写る、というもの。

透明な物体の光の屈折によってできた影が面白い効果となって浮き上がらせます。







このフォトグラム技法は原理的には日光写真と同じ考え方で、1835年、ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットカメラを使わない写真技術を考案。また1918年クリスチャン・シャードが、印画紙に密着させた物体で感光させた「シャドーグラフ」というものがあります。

マン・レイのレイヨグラフは、フォトグラムを元にした、さらに光源動かし、また物体を動かす事によってダイナミックな変化をつけたものでした。

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