クリムト「黄金装飾の画家」【画家】

絢爛豪華な黄金様式絵画が有名な、ウイーンの画家グスタフ・クリムト。女性たちを“世紀末的”官能美で描いた彼は寡黙で謎の多い人物とされています。オリエンタルでアール・ヌーヴォー調のその画風は、日本からも影響を受けました。

グスタフ・クリムトは学生時代から弟や友人と共に美術やデザインの仕事を始め、特に装飾家として名声を得ました。次第に古典的な芸術志向を嫌い、近代芸術志向の芸術家達によって結成した“ウィーン分離派”の初代会長を務めます。

商業主義芸術から転向し、純粋芸術へ愛と死をテーマにした社交界の貴婦人や官能的な女性像、また寓意画的絵画の数々を残しています。“金箔”をふんだんに使用した「黄金絵画」は有名ですね。

1918年死去。享年55歳。生涯残した作品は未完成も含め220点あまり。 素描は約4000点を越えるそうです。

象徴派、デカダン派、印象派、ユーゲント・シュティールなど、様々な顔をもつ謎の人物。

生涯独身。「金は天下の回りもの」が口癖で、宵越しのお金を持たない、そして自分の事を多く語らず、寡黙で手紙を書くのが苦手な筆無精だったそうです。

さてグスタフ・クリムト、どんな人物だったのでしょう。

装飾職人クリムト

若き天才の誕生

1862年グスタフ・クリムトはウィーン郊外のバウムガルテン(ペンツィング)で、ボヘミア出身の金銀細工師の父エルンスト・クリムトとミュージカルパフォーマーだった母アンナとの間に7人兄弟の第2子(長男)として生まれました。父親は、貧しい家庭ながら3人の息子を美術工芸学校に入学させます。

1873年クリムトが11歳の時ウイーン万博が開かれましたが、同時にバブル経済が破綻、オーストリアは厳しい不況に突入。クリムト家もその直撃を受け、「クリスマスのには贈り物はおろかパンすら無かった」という状況だったといいます。

14歳時、ウイーンの美術工芸学校(ウイーン応用美術大学の前進)になんとトップクラスの成績で入学。後に弟2人も入学しています。そこでフランツ・マッチュと出会う事に。2人の将来の夢は美術の教師になる事だったそうです。しかし、優秀な彼らに対し担当教師や学校創設者で美術館館長からは画家になる事を薦められます。そこでフェルデナント・ラウフベルガーの元で学ぶようになり、アカデミックな古典絵画教育を受ける事になります。

《クララ・クリムトの肖像》1880-02年 個人蔵
《サボイの少年》1883年 個人蔵

ラウフベルガーはクリムトと弟のエルンスト、友人のフランツ・マッチュに自分の仕事を手伝わせ、建築装飾の仕事を紹介しました。

3人のアトリエ経営

21 歳になると、クリムトと兄弟と、フランツ・マッチュで「芸術家カンパニーを結成。チェコの私立劇場やウィーンの美術史美術館、ブルク劇場の装飾の注文を請けたといいます。

《寓話》と《牧歌》は1882〜85年にかけて出版された『アレゴリーとエンブレム』シリーズの為に制作された油彩画。

《寓話》1883年ウィーン美術館
《牧歌》1883年 ウィーン美術館
《夏の夜の夢》1884-85年 ヘルメスヴィラ
《音楽の寓意(聖セシリア)》
クロアチア国立劇場(リエカ)天井画の下絵
1885年 オーストリア絵画館
《金のドレスを着た女性の肖像》1886-87年 個人像

ブルク劇場の装飾、《タオルミーナの劇場》《ロミオとジュリエットの死》《テスピオスの凱旋車》は、19世紀末ウイーン都市開発の要になったリングシュトラーセ様式とも言えるアカデミックで歴史主義的なスタイルで描き、好評を博します。

《天井画》1886-88年 ブルク劇場
《タオルミーナの劇場》
上《テスピオスの凱旋車》下《ロミオとジュリエットの死》

《旧ブルク劇場の観客席》ウイーン実在の名士でその名が判明している人物だけでも131名にも上がります。クリムトたちの存在を社交界で一躍有名にしたといって過言ではないでしょう。

《旧ブルク劇場の観客席》1888年ウィーン美術館
《サフォ》1888年 ウィーン美術館
《ヨーゼフ・ペンバウワーの肖像》1890年
チロル州立博物館フェルディナンデウム
《西洋夾竹桃と2人野少女》1890-92年 ワズワース・アテネウム美術館

1890年に依頼されたウイーン美術史美術館の階段の間の装飾は、画壇の重鎮ハンス・マカルトが担うものでしたが彼が急逝した事により、ハンガリーの画家ムンカーチとクリムトが担当し制作されました。《古代ギリシャ》《古代エジプト》は寓意画的な描き方です。

《エジプト美術 I,II 古代ギリシアI,II 》1890-91年 ウィーン美術史美術館
《古代ギリシア美術》
《エジプト美術》

翌年、クリムトはキュンストラー・ハウス(ウィーン美術家連盟)のメンバーとなりました。

聖なる春

父、弟の死と新たな道

1892年、6月に父が、12月に弟エルンストが亡くなってしまいました。これにはクリムト本人はかなりこたえたと思われます……。

この頃に受けていた《トティスのエステルハージ宮廷劇場の観客席》(現在消失)は《旧ブルク劇場の観客席》と同じように80名の名士が書き込まれていましたが、まだ未完成にもかかわらず翌年「キュンストラー・ハウス」の展覧会で銀賞を獲得します。これ以降、クリムトは劇場装飾には関わらなくなりました。

ブルク劇場の装飾画では金十字勲章を、「旧ブルグ劇場観客席」では皇帝賞を授与されましたが、完成作でもないのに銀賞とは、彼はのぼりつめて初めて作品評価の政治性、虚構性に気づいたのでした。

依頼主に合わせ、リングシュトラー様式と言われた歴史主義的でアカデミックな手法で装飾や絵画を描いてきたクリムトが、初めて自分のスタイルを模索し始めます。

《ローテンブルグでの芸人の即興劇》1893-94年 個人蔵
《音楽 I》1895年 ノイエ・ピナコテーク
《愛》1895年 ウィーン美術館
《カルロスに扮する宮廷役者
ヨーゼフ・レヴィンスキーの肖像》
1895年 オーストリア絵画館

友との決裂と、天井画の悲劇

一方、マッチュの方はこれまで通りの迅速な職人仕事で受注をこなしていってましたが、1894年に文部省からウイーン大学講堂の天井画の依頼を受けた際、マッチュ一人でこれを受けようとします。下絵は却下。

クリムトがそこに入り事なきを得ましたが……2人の関係は悪くなり、次第に離れていきました。

さて、その制作は保守的な政府、大学関係者、批評家たちによる無理解ゆえに挫折。失望、怒り、ストレスの連続だったといいます。

というのは、クリムトが担当したのは《医学》《哲学》《法学》の3点。

なんと彼の制作した画は天井画の伝統をまったく無視した、写実的歴史画や寓意画ではなく平面的で彼個人的な自由なファンタジーに由来する、言うなれば型破りな作品となったのでした。

これはギリシア神話の健康の女神ヒュギエイア

《医学》1900-07年 焼失した一部のカラー写真
《医学》1900-07年
1945年インメンドルフ城にて焼失
《哲学》1900-07年
1945年インメンドルフ城にて焼失
《法学》1907年
1945年インメンドルフ城にて焼失

こうした型破りな作品ゆえに、この3点は発表当時から物議をかもし、賛否両論。こうしたごたごたに嫌気がさしたクリムトはこの仕事から手を引き、これ以降国家の仕事は請けなくなりました。

ちなみにこの3点は1944年オーストラリア美術館所蔵となり、戦時中という事もありオーストリア山中のインメンドルフ城に疎開。

翌年敗色濃厚のナチス軍は城が連合軍の手に落ちる事を嫌い、城と共に10点以上のその他の作品も含め焼き払ってしまったのでした。

ウィーン分離派の誕生

クリムトはキュンストラー・ハウスのメンバーでしたが、その保守的で閉鎖的体質に不満を覚えた仲間たちと1897年に独立し、“ウィーン分離派”を結成。その初代会長に就任します。“分離”とは伝統主義、権威主義、アカデミスム、マンネリスムからの分離、脱皮を意味します。

1892年にミュンヘン、そしてベルリン分離派が結成されましたが、これはそれに習った形の近代主義的な運動でした。影響を受けたものとしてイギリスでの“ラファエル前派”、フランスの“印象派”などが上げられます。

時はまさに19世紀末。諸外国では新印象派、ポスト印象派、象徴主義、ナビ派、アールヌーボーなど様々な芸術潮流がわき起こった時代。クリムトが影響されたのも無理はありませんね。

後に工芸学校の後輩画家エゴン・シーレが弟子入りを志願しますが、分離派のメンバーに加わります。

《寓意画「彫刻」のための習作》1897 -98年
オーストリア応用美術館
《寓意画「ユニウス」のための習最終素描》1896年
ウィーン美術館
《寓意画「悲劇」のための習最終素描》1897年
ウィーン美術館

1899年頃、画家エミール・ヤーコプ・シンドラーの娘で、後のオーストリアの作曲家グスタフ・マーラーの妻、アルマ・マーラーという女性と知り合います。なんでもクリムトはこの女性の初恋相手だったとか。しかし、その恋はアルマの母親によって引き裂かれてしまいました。

クリムトに訪れた『聖なる春』

“分離派”の具体的な目標として挙げたのは自由な展覧会活動。フランスを中心に目覚ましい展開を見せる近代美術の諸傾向を、ウイーンに紹介することでした。これは批評家ルードヴィッヒ・ヘヴェッジの言葉。“分離派”の理念です。

「時代にはその時代の芸術を、芸術には自由を」

“分離派”は1894年から1905年にかけて計23回の展覧会を開きましたが、オーストリアの作家に加え、フランスの印象派、ゴッホセザンヌ、ベルギー象徴派、イギリスのグラスゴー派なども積極的に紹介。1900年にはヨーロッパを席巻していたジャポニスムに応え、日本美術特集も組んでいます。

分離派の機関誌として重要な役割を果たしたのが『聖なる春』(ヴェル・サクルム)でした。

クリムトはこの機関誌に挿絵を掲載。第一回分離派展のポスターも制作します。

《第一回分離派ポスター 1898》1897年
オーストリア応用美術館
『ヴェル・サクルム』1891年
4月号付録1月カレンダー

“分離派”の目指していたものとは、先に挙げた「諸外国の芸術との交流」とそして、「商業主義芸術から純粋芸術への転換」。

商業美術にあけくれていたクリムト自身が、発注芸術ではない純粋芸術としての作品展開を始めるのも実はここから。

《パラス・アテナ》1898年 ウィーン美術館
《裸の真実》1899年
オーストリア劇場博物館
《裸の真実》(『ヴェル・サクルムより』)1898年
オーストリア劇場博物館
《魚の血(冷血)》1897-98年 個人蔵
《流れる水》1898年 個人蔵
《ピアノを弾くシューベルト》1899年 1945年インメンドルフ城にて焼失
クリムトのジャポニスム

クリムトの作品にはどことなく和のテイストが感じられます。 “ジャポニスム”とは西洋美術における日本文化の影響を表した言葉で19世紀世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパを席巻した一大ムーブメントでした。 実は“ウイーン分離派”こそがジャポニスムの牙城だったらしいのです。

クリムトは趣味的、日本のコレクションがあり、浮世絵、能面、鎧兜、着物、仏像を収集していたらしく、ウィーンにやってきた川上音二郎オッペケペー節)一座の芝居に2度も足を運んだといいます。 クリムト作品には、画面中の衣装の文様や、額縁の装飾、植物の描き方等、日本美術の影響がみられます。

1900年セセッション館(ウイーン分離派館)で開かれたジャポニスム展は、分離派とジャポニズムの接近を象徴するイベントでした。特に浮世絵琳派の影響は、クリムトの諸作品の基調あるいは細部の随所に顕著に見て取れます。

最初のコメントをしよう

必須