モネ「光を追い求めた画家」後編【画家】

のどかなフランスの美しい風景画で人々を魅了する近代美術の巨匠、クロード・モネ。油彩画《印象・日の出》は、そのまま印象主義の名前の由来となり、彼は印象派としての先駆者です。「私は鳥が歌うように絵を描きたい。」その人生は苦労の連続でした。

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後編

嵐を乗越えて

貧困の中次男誕生そして、妻の死

1876年、印象派の展覧会の第2回目が行われました。この年は印象派の良き理解者ショッケ、また実業家で美術収集家のエルネスト・オシュデと知り合います。オシュデもまた印象派を高く評価していた富豪。モネの絵を購入し、またパリの南東に城をもっておりモネに飾る絵を依頼するなど、オシュデはモネの救済者となりました。

《散歩、日傘をさす女性》1875年
ワシントン・ナショナルギャラリー
《庭の食事》1873年 オルセー美術館
《ラ・ジャポネーズ》1876年 ボストン美術館
《テュイリー庭園の眺め》1876年 オルセー美術館
《モンジュロンの庭》1876年 エルミタージュ美術館
《モンジュロンの池》1876年 エルミタージュ美術館

翌77年、印象派第3会展に《サン・ラザール駅》を出展しますが不評に終わります。モネはアルジャントゥイユでの生活に出費がかさんだこともあり、借金に追われ家具の競売を求められる状況に。

身重で病気がちだったカミーユとジャンを連れアルジャントゥイユを後にしました。

《サン・ラザール駅、ノルマンディー号の到着》1877年 シュテーデル美術館
《サン・ラザール駅》1877年 オルセー美術館
《七面鳥》1877年 オルセー美術館
《石炭の積み降ろし》1875年 個人蔵
《すみれを持ったカミーユの肖像》1876-76年 個人蔵

しかし、不幸というものはこうも続くものなのでしょうか…。

78年の春、なんとオシュデが破産してしまいます。一方モネはと言うと、次男ミシェルが誕生しますが、妻カミーユの健康状態はさらに悪化していきました。

《モンソー公園のパリジャン》1878年 メトロポリタン美術館
《菊をいけた壷》1878年 オルセー美術館

この時マネがモネに会いに行った様子を「どうすることもできず、絶望しきっていた」と記しています。

マネはそんなモネにお金を用立ててくれました。

モネ家族はマネの助力もあってセーヌ河下流ヴェトゥユの安家賃の小さな家に移住しました。

しかしさらにとんでもないことが……債権者からベルギーに逃れていたオシュデの妻アリス(しかも身重)が5人の子供たちを連れ、モネの住む小さな家に転がり込んでしまったのでした。これは大変です。

しばらくして2つの家族は、広めの家に移転しますが……身を粉にしてモネは働きます。

79年の印象派第4回展に29点の絵を出展。この時アメリカの印象派画家メアリー・カサットが1枚の絵を300ドルで買ってくれました。これにはモネ、大喜びだったそうです。

《サン・ドニ街》1878年 ルーアン美術館
《モントリグイユ街》1878年 オルセー美術館
《ヴィトイユの教会》1878-79年 オルセー美術館

しかし……弱りきって苦しみながらも、この年の9月5日妻カミーユは亡くなってしまいました。

32歳とまだ若かったカミーユ。癌だったそうです。この時モネ39歳。

《死の床のカミーユ》1879年 オルセー美術館

そして人生は好転する

1880年モネは印象派展(第5回展)への出品はやめてしまいます。理由はドガとの意見が合わなかったという事なのですが、この年モネは久しぶりにサロンに応募しました。

今のモネはお金に繋がる事は何でもする、という姿勢だったようですね。2点応募したうちの1点《ラヴァクール》が入選します。

しかしせっかくの作品はほとんど見えないような高い所に掛けられ、がっかり。モネは二度とサロンには出品しなかったといいます。

《ラヴァクール》1880年 ダラス美術館
《解氷》1880年 リール美術館
《ラヴァクールのセーヌ川の日没》1880年 プチ・バレ美術館

ところが一転…モネの経済状態はやっと好転し始めます。

シャルパンティエの主宰する『近代生活』誌の事務所で展覧会を開き成功を収めました。テオドール・デュレがカタログに序文を寄せています。

「クロード・モネ氏は風景画に創意と独創性を持ち込んだ点で、コロー以来の大画家と言えよう。」

モネの運はさらに好転します。デュラン=リュエルが銀行から支援を取り付け1881年に再び画廊を開ける事になったのです。

前年に描いたモネの海の風景画がよく売れたため、デュラン=リュエルはモネに制作資金と買い取りの前金を出し、制作の旅をさせてくれたのでした。

《ヴェトイユの画家の庭》1881年 ワシントン・国立美術館

新しい視覚経験を求めて

モネ、“旅の時代”

モネは1881年からル・アーヴルから北方面にノルマンディー海岸線、海辺の街や村で制作していきました。80年代はモネの“旅の時代”とも呼ばれており、オランダやイタリアのボルディゲーラ、フランスとイタリアの国境あたりのマントンでも制作しています。

《海辺の船》1881年 東京富士美術館
《ヒナゲシの野》1881年
ボイマンス=ファン・ビューニゲン美術館
《プールヴィルの断崖の道》1882年 シカゴ美術館
《プールヴィルの断崖にある税官吏の小屋》1882年 ボストン美術館
《ディエップ断崖》1882年 チューリッヒ美術館
《サンジェルマンの森の中で》1882年 山形美術館

また、1882年の印象派展(第7回展)に参加。ルノアールやシスレーといった印象派の中核のメンバーと共に復活します。

レアリスム作家が多かった第6回展にくらべ、久々に印象派らしい展覧会になったといいます。

しかしこの展覧会は、次の第8回を持って幕を閉じました。

《ヴェルノンの教会の眺め》1883年 山形美術館
《エトルタの嵐》1883年 リヨン美術館
《マンヌボルト》1883年 メトロポリタン美術館
《エトルタの崖》1885年
クラーク・アート・インスティテュート
《ボルディゲーラの別荘群》1884年 ワシントン・国立美術館
《ベリル島のピラミッド》1886年 プーシキン国立美術館
《ライデン近くのチューリップ畑》1886年 オルセー美術館
《ハーレム近郊のチューリップ畑》1886年 クラーク美術館
《エステレルの山》1888年 コートールド・ギャラリー
《アンティープ、午後の効果》1888年
ボストン美術館
《ラ・サリスから見たアンティープ》
1888年 トレド美術館

最期の地ジヴェルニー

モネ・オシュデ一家はヴェトゥユからパリ近郊のポワシーに移住しますが、セーヌ河が氾濫し洪水にみまわれたため、1883年にジヴェルニーに住居を置きました。

ジヴェルニーは北フランスにあるセーヌ川とエプト川が合流する美しい村。モネはこの美しい村が大変気に入り、また快適な生活を送ったようです。そしてここが彼の永住の土地となります。

《ジヴェルニー付近のひなげし畑》1885年
ボストン美術館

モネはヴェトゥユからアトリエ舟や手こぎ舟など4 そうの舟を運び込みエプト河口に置きました。

オシュデの子供たちも我が子のように扱っており、家族全員でピクニックを楽しみ夏はセーヌ川で泳ぎ、冬はスケート、秋はきのこ狩りを楽しんだそうです。学校が休みになると、制作旅行にみんなで出かけました。

《ジヴェルニーの沼地にて、
読書するシュザンヌと絵を描くブランシュ》
1887年 ロサンゼルス美術館
《ベレー帽をかぶった自画像》1886年 個人蔵
《ミシェル・モネの肖像》1880年 マルモッタン美術館
《ジヴェルニーの干し草の山》1886年
エルミタージュ美術館
《戸外の人物習作右向き》1886年 オルセー美術館
《戸外の人物習作左向き》1886年 オルセー美術館
《ボート》1887年 モッタン美術館
《アン・ノルヴェジェンヌ》1887年頃
オルセー美術館
《エプトの川ボート》1887年
国立西洋美術館
《ジヴェルニーの草地》1888年
エルミタージュ美術館
《エプト川のボート》1890年
サン・パウロ美術館

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