モネ「光を追い求めた画家」前編【画家】

のどかなフランスの美しい風景画で人々を魅了する近代美術の巨匠、クロード・モネ。油彩画《印象・日の出》は、そのまま印象主義の名前の由来となり、彼は印象派としての先駆者の一人です。「私は鳥が歌うように絵を描きたい。」その人生は苦労の連続でした。

パリ生まれで、ノルマンディの港町で育ったクロード・モネ。少年期“外光派”の画家ウジェーヌ・ブーダンと出会い、風景画の虜になります。成長したモネはパリで一流画家への登竜門であるサロン・ド・パリに入選しますがなかなか絵が売れず生活は困窮状態。

やがてモネは友人画家と共にグループ展を開催。後にこれが“印象主義”という芸術潮流の一つを生み出すきっかけになりました。

晩年は白内障に悩まされつつも「睡蓮」の絵を描き続けた事でも有名です。

1926年12月5 日、モネ肺がんのため死去。享年86歳。

彼の自らが感じた主観から、光と色彩の移ろいを描いた美しい絵は“印象主義”そのもの。しかしその静寂さと美しい絵とは裏腹に、その人生は苦労の連続で波瀾万丈でした。

カンディンスキー、リキテンスタイン、ボロック、ウォーホールなど20世紀現代アートの面々にも多大な影響を与えたというクロード・モネ。彼の作品と生涯しっかりとご覧ください。

ノルマンディの少年

モネ早熟の才能

1840年、オスカー・クロード・モネはパリのラフィット街で生まれました。父アドルフが義兄ジャック・ルカードルの経営していた食料品卸売業で仕事を手伝う事になり、5歳の時家族と共にノルマンディの港町ル・アーヴルに移ります。モネは、ル・アーヴルで海辺の美しい風景の中で少年期を過ごし、自然に対する豊かな感受性を養ったといわれています。

コレージュ(中学校)へ入ったモネは学業にはまったく身が入らず、似顔絵やカリカチュア(戯画/漫画イラスト)ばかり描いていたそうです。子供ながらなかなか上手いものですね。

《弁護士レオン・マション》1855〜56年 シカゴ美術館
《葉巻をくわえたダンディ》1857年
マルモッタン美術館
《片眼鏡にハンチングの若者》1857年
マルモッタン美術館
《ボルドー・ワイン》1857年
マルモッタン美術館

16歳で母親が亡くなり大学入学資格を習得する前にコレージュを中退。母親がわりの伯母マリー・ジャンヌ・ルカードルはモネをデッサン教室に通わせます。それからのモネはカリカチュアで評判を得て、絵も20フラン(約1~2万円)で売れたといいます。伯母が貯金したその額は2000フランにもなったそうです。

風景画の才覚

そんなモネは海景画家ウジェーヌ・ブーダンと知り合います。彼は青空と白雲の表現に優れ、コローに「大空の王」と称えられた“外光派”の画家。ブーダンはモネを戸外スケッチに連れ出し、一緒にイーゼルを並べて風景画の指導をしたそうです。モネはその体験に「突然目の前から霧が晴れて行くようだった」と語っています。

「ついに私の眼は開かれた。自然を本当に理解するようになり、自然を愛する事を覚えた。」

そして彼は初期の代表的作品《ルエルの眺め》を完成させます。そして1858年ル・アーヴル市展覧会に出品しました。
翌年、アーブル市の奨学金を得て、伯母の勧めもありモネはパリへ出発するのでした。

《ルエルの眺め》1858年 丸沼芸術の森

青年画家の旅立ち

アカデミー・シュイス

モネがパリに出たのは1859年。モンマルトルの下宿を転々としながら、芸術家を目指すボヘミアンな若者達のたまり場ブラッスリー「マルティル」へ足しげく通い、画塾アカデミー・シュイスといいう自由塾で絵の勉強をします。

翌年1861年兵役のためアルジェリアで過ごしますが、北アフリカの眩い光は風景画家としての感情を多いに高ぶらせたといいます。一年後腸チフスにかかり実家ル・アーヴルに戻りました。そしてオランダ人画家ヨハン・ヨンキントを知る事になります。アルコール依存症だった彼でしたが……、ヨンキントはブーダンの教えをさらに完全なものにしたと、モネは語っています。


《アトリエの片隅》1861年 オルセー美術館
《狩猟の記念》1862年 オルセー美術館

パリの仲間、そしてサロン入選

彼は再びパリへ。“新ギリシャ派”の画家シャルル・グレールのアトリエに入ります。そこではピサロ、シスレー、バジール、ルノワールと親しくなり、彼らと共にフォンティーニュブローの森や、パリの街に制作に出かけました。中でもバジールは一緒に制作のための小旅行をしたり、ノルマンディー地方に滞在したりと大の仲良しだったそうです。2人は離れていても文通し合う仲だったといいます。

 薪を運ぶ女たち/フォンティーニュブローの森》1864年 ボストン美術館
《オンフルールのバヴォール街》1864年 ジヴェルニー、モネ・コレクション
《並木道 (サン=シメオン農場の道)》1864年 国立西洋美術館
《ノルマンディー農園》1864年頃 オルセー美術館
《春の花》1864年頃 クリーブランド美術館
《オンフルールの海》1864-66年 ロサンゼルス・カウンティ美術館
《緑の波》1865年頃 メトロポリタン美術館
《シャイイの舗道》1865年 オルセー美術館
《バ・ブレオのオークの木》1865年 メトロポリタン美術館

1865年、サロン・ド・パリへ応募した作品《引き潮のエーヴ岬》と《オンフルールのエーヴ河口》の2点が入選新聞では高い評価でしたが、評論家たちは辛口です。しかしどちらの絵も300フランで売れ、24歳の画家として上々のデビューを飾ります。セザンヌの親友であり、当時美術誌の編集者でもあった小説家エミール・ゾラはモネの事を大絶賛したといいます。

《引き潮のラ・エーヴ岬》1865年 キンベル美術館
《オンフルールのセーヌ河口》1865年 ノートン・サイモン美術館

モネはこれを機にさらに野心的な作品《草上の昼食》を描き始めました。何と人物を原寸で描こうとし、縦4m、横6m以上の巨大作品。ギュスターヴ・クルーベやバジール、シスレーもモデルになり、戸外での制作ができずアトリエでおこなっていましたが、結局完成できず。

《草上の昼食》(習作)1865年 プーシキン美術館
《草上の昼食》(未完)1866年 オルセー美術館

それでも66年度のサロンにどうしても提出したかったモネ。《緑衣の女》と風景画1点、見事入選を果たします。この《緑衣の女》のモデルこそ、モネの恋人19歳のカミーユ・ドンシュー、後のモネの妻になる女性でした。しかしモネの父親はモデルと同棲している事に激怒。別れるようにモネに命じますが、本人は聞き入れず。父親からの仕送りはストップされてしまいました。

《緑衣の女》1866年 ブレーメン美術館

生活の困窮、さらにサロン落選

翌年の67年に息子ジャンが誕生します。それはそれはモネ大喜び。しかしこの年に出した《庭の女たち》のサロン入選はありませんでした。

《庭の女たち》1866年 オルセー美術館
《ゆりかご》1867年 ワシントン・ナショナルギャラリー
《サント・アドレスのコトー庭園のアドルフ・モネ》1867年 
《サン・タドレスのレガッタ》1867年 メトロポリタン美術館
《サン・タドレスの浜辺》1867年 シカゴ美術館
《ランファント庭園》1867年 アレン・メモリアル美術館
《サン・ジェルマン・ロクセロワ教会》1867年 ベルリン・旧国立美術館
《サン・タドレスのテラス》1867年 メトロポリタン美術館

翌年68年のサロンでは審査員“外光派”のシャルル・フランソワ・ドービニーの尽力で《ル・アーヴルの波止場》が入選。

一家は貧困生活の中、債権者から逃れるためパリから…転々としつつ、一度モネの自殺未遂もありました。しかしル・アーヴルの船主で美術愛好家ゴーディペール夫妻の経済的援助、そして友人たちの支えにより立ち直り制作を続けました。

実家が裕福だったバジールにはたびたび助けてもらっており、このころ制作を共にしたルノワールにも、自身も貧しい生活でしたが支援してもらった事もありました。

《ル・アーヴルの波止場》1868年 フィラデルフィア美術館
《ゴーディーベール夫人の肖像》1868年 オルセー美術館
《オンフルールの漁船》1868年 個人蔵

69年サロン落選。生活はますます困窮し、モネは画材も買えないほどになっていきます。70年のサロンに、ルノワール、シスレー、バジール、ピサロは入選しますが、またモネは落選します。その事でドビーニーとジャン=バティスト・カミーユ・コローは抗議し、審査員を辞めてしまったそうです。

ゴーディペール夫妻を頼り、エトルタ滞在中に描かれた《昼食》。息子ジャンの幸せそうな一コマ的絵。70年のサロンに出品しますがこれも落選しています。

《セーヌ河岸、ベンヌクール》1868年 シカゴ美術館
《カササギ》1868年 オルセー美術館
《ラ・グルヌイエール》1869年 メトロポリタン美術館

パティニョール派

この頃マネを中心として若手画家たちが集うパリのカフェ・ゲルボワに、モネも招かれるようになりました。そこではマネとエドガー・ドガが芸術論を戦わせており、モネやルノワールは聞き役に回っていたといいます。そこではサロンに対する不信感と、反アカデミスムの思想がじわじわと育っていきました。

そんなカフェ・ゲルヴォワに集う若いアヴァンギャルド画家達のことを象徴して、当時“パティニョール派”と呼ばれたそうです。

《ラ・グルヌイエールの水浴》1869年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー
《昼食》1868-69年 シュテーデル美術館

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