セザンヌ「感覚と本能の画家」前編【画家】

「感覚の実現」に生涯をかけたという、ポール・セザンヌ。”印象派”のグループとして活動していましたが、後に離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求します。その自己表現は従来の美術界や若い画家たちに衝撃を与え、「近代絵画の父」と呼ばれました。

ポール・セザンヌは1839年、南フランスはエクス・アン・プロヴァンスで生を受けました。銀行家の父に法律の勉強を強いられていたセザンヌは、中学校時代から親友だったパリの小説家エミール・ゾラの影響もあって、画家の道を捨てきれず22歳でパリへ。画塾アカデミー・シュイスに通います。その後は1865~70年にかけ何度もサロン・ド・パリに応募しますが、ことごとく落選し続けたそうです。

56歳で画家の仲間達の協力もあり個展が成功。やっとパリでも知られるようになり晩年は生まれ育ったエクスで「自己流」とも言える制作を続け、若手画家からの指示や人気は高まっていきました。

1906年戸外での制作中に大雨に打れ倒れ、セザンヌは肺炎をおこし死去。享年67歳。

残された作品の数は、油絵約900点、水彩画約350点、デッサン350点。

亡くなった後セザンヌの回顧展は“フォーヴィスム”の画家に影響を与え、さらに彼の探求していた表現の中に、後の“キュビズム”の発想源になったりと、後世代に大きな影響をあたえ作品は高騰していきました。

産業革命の間っ只中の時代、新しい価値が浸透して行く中で、「感覚」という本能と直感力での造形の可能性を示してきた「近代絵画の父」ポール・セザンヌ。

個性のイマジネーションを堂々と表現した画家と言っても良いでしょう。その頑固で根性の人生、追ってみます。

 

前編

 

夢想家セザンヌの挑戦

そんなに甘くなかったパリ

セザンヌの画家としての初めての仕事は、1859年に父ルイ・オーギュストが手に入れた大邸宅の室内装飾でした。彼は父の了承を得て室内装飾の構想を練り、板絵作品《四季》を完成。この作品で父に息子のパリ行きを認めるきっかけとなりました。

 

 

《四季》1859-60年 プティ・パレ美術館

 

 

《詩人の夢》1859-60年 オルセー美術館

 

 

1861年4月、22歳のセザンヌは画業を志し、中学校以来の親友エミール・ゾラの待つパリに出ました。パリでは官立の美術学校エコール・デ・ボザールをめざし、画塾アカデミー・シュイスで修行しますが半年たらずで早くも挫折し実家のあるエクスへ。

再度父の協力を経て再びパリへ行きますが、24歳時エコール・デ・ボザールの入試に失敗。また嫌気がさしエクスへ。その後は1865~70年にかけほぼ毎年サロン・ド・パリに応募しますが、ことごとく落選。たびたび、実家に戻っています。

しかし、この連続した落選には彼の信念と思惑がありました。

 

《パリスの審判》1862-64年 個人蔵

 

《修道僧の肖像(ドミニクおじ)》1865年 個人蔵

《苦悩あるいはマグダラのマリア》1865-68年 オルセー美術館

《妹マリーの肖像》1866−67年 セントルイス美術館

《レヴェヌマンルイ・オーギュスト・セザンヌの肖像》1866年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー

《誘拐》1867年 フィッツウイリアム美術館

《アシル・アンブレール像》1867-68年 プティ・パレ美術館

《殺害》1867-68年 ウォーカー・アート・ギャラリー

 

パリ画壇をあざ笑う、反アカデミスト

当時の美術界は激動の時代を迎えており、古典主義の画家や教授に牛耳られていたサロンに批判や不審な目を向けられていました。

そんな革新的画家マネを中心とする画家グループがカフェ・ゲルボワに集っていて、美術批評家になっていた親友ゾラがその常連になっていきます。ゾラはマネの絵に非常に感心を抱きマネと交流を持つようになりました。するとゾラの影響もあってセザンヌも自然とその中に入って行きます。次第に感化されていった彼は熱い芸術家気質に染まっていきました。

また、画塾アカデミー・シュイスでは、ギョマンピサロと知り合い、さらにモネルノアールシスレーといった後の印象派主義者たちとも交流を深め、古典教育に不満を抱いていた彼らと意気投合していくことになります。

 

 

《ドクロと燭台》1865-67年 個人蔵

 

 

《タンホイザー序曲》1869-70年 エルミタージュ美術館

 

 

美術学校の入試に失敗した彼はエリートコースにはまったく無関心でした。独学で絵を描きながらサロンに出品し続けたセザンヌ。当時の美学規範からすれば、醜悪で破廉恥とも受け取られがちな絵画は入選するはずもなかったのです。

いつのまにか彼は古い古典主義芸術にとらわれたサロンに対し挑発的に揺さぶりをかける事。いわば、喧嘩を吹っかけていたと言った方が分かりやすいのかもしれませんね。今の言葉を借りるとアナーキーでパンクなセザンヌ。

60年代は“ロマン主義ウジェーヌ・ドラクロワ“写実主義”ギュスターヴ・クールベ、後に印象派の父と呼ばれるエドゥアール・マネらから影響を受けました。この頃は特にロマン主義の影響が強く出ています。

 

《聖アントワーヌの誘惑》1867-69年 ビュールレ・コレクション

 

《ゾラに本を読んで聞かせるポール・アレクシス》1869-70年 サンパウロ美術館

《黒い置き時計がある静物》1869年 エルミタージュ美術館

 

この時代のセザンヌは、「私小説絵画」ともいうべき死や肉欲、暴力、倦怠、孤独に対する夢想を画面にぶちまけます。当時の彼のアヴァンギャルドさが目に浮かびますね。こうした作品には「感じるままに描く」というセザンヌ芸術の原点があり、観る者に衝撃をあたえたかった彼の願望と目的がありました。

 

《饗宴》1867-70年 個人蔵

 

生涯のモデル、生涯の伴侶

オルタンス・フィケ

そんな中、1869年、後の妻となるオルタンス・フィケと出会います。画塾アカデミー・シュイスでモデルをしていた彼女は18歳。翌年、普仏戦争の勃発、仲間の多くが戦地に赴きましたがセザンヌは父親の力で兵役を逃れ、さらに母親の計らいでマルセイユ近郊のエスタックで、父には内緒の同棲生活が始まりました。さらにパリ・コミューンによる混乱でパリは激動の渦に。この時セザンヌ31歳。

《プロヴァンス地方の道》1867-70年頃 モントリオール美術館

《サントヴィクトワール山の見える切り通し》1870年頃 ノイエ・ビナコテーク

《赤い肘掛け椅子のセザンヌ夫人》1877年頃 ボストン美術館

 

 

彼女の存在はセザンヌの欲望、血気あふれる激しい気性を鎮め、純粋造形へ導いたといいいます。セザンヌはオルタンスをモデルとした絵をたくさん描いており、「じっとしていろ!リンゴは動かんぞ!」と困らせたと言います。それでもじっと彼のためにモデルを務めた、夫想いの辛抱強い女性だったのですね。そんな2人は17年後にやっと結婚します。

 

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