カール・ラーション「アットホームな画家」【画家】

自身の家族をモチーフに描いた作品で、フランス印象派の画家に多大な影響を与えたというスウェーデンの画家カール・ラーション。妻や子供たちを心から愛し、愛に満ちあふれた日常生活風景の作品を数多く残しました。

1853年生まれのカール・ラーション。スウェーデンの首都ストックホルムの出身です。絵の才能は幼少期からありなんと13歳で王立美術学校に進みました。家が貧しかったので働きながら、絵の勉強をしたそうです。

パリ留学を経て画家としての画業に励むかたわら、生活のため新聞や雑誌の挿絵の仕事をしイラストレーターとしても活躍しました。1883年、30歳当時画学生だったカーリンと結婚します。その後はダーラナ地方の美しい村、スンドボーンの家を妻と共にリフォーム。

1899年に画集として出版された、家族との情景を描いた水彩画のシリーズ『わたしの家』が人気をはくし、世界にその名を知らしめる事になります。他にも数冊の画集が出版され、日本にも当時紹介されたそうです。

また、ストックホルムの国立美術館や高等学校の壁画・など多数の作品を制作し、スウェーデンの国民的画家になっていきますが、1919年65歳、生涯を終えました。

アール・ヌーボーに影響を受け、そして日本の美術を愛好しジャポニスムの画家として知られたラーション。
そして家族の想いがしっかり詰まった、幸せに満ちた“家庭の絵”を多く描いた作品の数々。

見る人々を魅了し、幸福感いっぱいにさせてくれる、カール・ラーションの作品と人生、覗いてみましょう。

カール・ラーション画家人生の始まり

学業と仕事の両立が生んだ、作品の基盤

ラーションは1853年、スウェーデンのストックホルム旧市街のガムラスタンで生まれ。当時彼の家は貧しかったため救貧学校に通ったそうです。

小学校で担任教師がラーションの絵の才能を評価し、王立美術学校予備課程への入学を申し込んでくれた事で、1866年に予備課程に入学。指導者にはスウェーデン画家グスタヴ・ヴィルヘルム・パルムがあたり、そして1873年に油彩課程へと進級する事になります。

1871年、18歳頃から自身と家族生活をささえるため風刺雑誌『カスペル』の挿絵の仕事、1875年からは『新絵入新聞』の報道画家、ルポルタージュ記者のアルバイトをしていましたが、取材の仕事が多忙だったので学業との両立には大変苦しんだようです。しかし現場をよく観察して描くという姿勢はその後のラーションの創作方法に定着していきます。

パリ留学での出会い

1877年4月、ラーションはパリに留学しますが王立美術学校から奨学金が得られず困窮。貧しい暮らしを送りながらも制作は続けていきました。翌年25歳でパリのサロンに初入選し帰国した後も、挿絵仕事は続けていたそうです。

《光陰》1877年
《風景》1878年
《職工》ストリンドベリ著『スウェーデンの人々』
挿絵原画 1882年 スウェーデン国立美術館

1877年作家ヨハン・アウグスト・ストリンドベリと親しくなり、彼の仕事にも着手します。そしてこの年運命的な出会いがありました。

女性画家カーリン・ベーリェー。それは後の妻となる人でした。

グレー・シュル・ロワン

芸術家村での、ラーションの成長

ラーションは1882年パリ・サロンでの、年に一度の展覧会に落選。落胆のためか病に倒れてしまいます。その年の夏、友人の勧めで当時芸術家の集まるコロニーと言われた、パリ郊外のグレー・シュル・ロワンに移りました。そこはセーヌ河の支流ロワン湖畔のある小さな村。

《10月(南瓜畑)》1882年 イェーテボリ美術館
《11月(霜)》1882年 イェーテボリ美術館

この頃から彼は作品に“写実主義”を取り入れ、水彩画の上に自然の光を再現。パリでの喧騒の最中で描いていた寓意画や人物画とは異なる、明るくみずみずしい風景画へと変わり、見違えるような発展を遂げました。その表現はストックホルムで高く評価されます。

そして翌年1883年、パリ・サロンでは見事入選し3等メダルを獲得します。その作品《10月(南瓜畑)》《11月(霜)》はすぐにスウェーデンの富豪ポントゥス・フュシュテンベリーに購入され、ラーションのパトロンに、さらに友人となっていきました。

《家庭菜園で》1883年 スウェーデン国立博物館
《老爺と新しく植えられた木》1883年
スウェーデン国立博物館
《グレーの堰》1883年 オルセー美術館

秋にはさらに2点の水彩画老爺と新しく植えられた木》がストックホルムの国立美術館に購入され、翌年1884年にはフランス政府にも水彩画1点《グレーの堰》が購入されました。この年、スウェーデン王立美術学校はラーションを教授資格者にしようとしましたが、彼はこれをあっさり断っています。

その後ポントゥス・フュシュテンベリーの支援もあり、1885年春に学友達と共に“反逆派”の展覧会「セーヌ湖畔より」を、秋に「反逆派展」をストックホルムのブランシュ画廊で開催します。それは当時の若手画家59人が出品する、王立美術学校へのアンチテーゼなのでした。

《葡萄(対幅)》は「セーヌ湖畔より」に出品された作品。

《葡萄(対幅)》1884年 スウェーデン国立美術館

一生のテーマとなった家族の肖像

カーリンとの結婚生活の始まり

1882年ラーションはグレー・シュル・ロワンで、カーリン・ベーリェーと再会しプロポーズ、翌年の6月にラーションはカーリンと結婚。新生活がスタートします。一時パリにアトリエを借りますが、翌年再びグレー・シュル・ロワンに戻る事に。そして長女スサンヌが生まれたのでした。

《アトリエの牧歌》1885年 スウェーデン国立博物館
《カーリンとスサンヌ》1887年
《ポントゥス》1890年 スウェーデン国立博物館

1886年、ラーションはイェーテボリのヴァーランド美術学校の教職に付きます。また、1887年には長男ウルフが、翌年には次男ポントゥスが生まれ、家もにぎやかになってきましたね。

リッラ・ヒュットネース

以前から訪れていた、スウェーデン中部のダーラナ地方、ファールン市にある小さな村スンドボーン。

1888年、カーリンの父から別荘スンドボーンの家「リッラ・ヒュットネース」を譲り受けました。翌年からラーション一家は一年のうちの数ヶ月をそこで暮らすようになり、9o年に入るとリフォームを始めました。この頃から、水彩画シリーズ『わたしの家』の制作が始まり、「リッラ・ヒュットネース」を舞台に水彩画の傑作が生まれていきます。

《わたしの家族》1892年 個人蔵
《あしたはクリスマス・イヴ》1892年 カール・ラーション・ゴールデン
《クリスマスの朝》1894年 個人蔵

さて、これからたくさんのラーション家族の絵を紹介していくのですが、ラーション夫婦には4男4女、8人の子宝に恵まれます。

長女スサンヌ
長男ウルフ
次男ポントゥス
次女リスベート
三女ブリータ
三男マッツ
四女チェシュティ
四男エスビョーン

なんとも…さぞかしにぎやかな家庭だった事でしょう。しかし長男ウルフは虫垂炎のため8歳で、3男のマッツは生まれて数ヶ月で亡くなっています…

《ア・レイ・オブ・サンシャイン》1892年
《ひまわり》1893年
《母の肖像》1893年 
《ウルフ》1894年
《イーゼルの前の自画像》1895年 ヴァルデマシュウッデ美術館

《花壇のブリータ》1897年 個人蔵

《ポントゥスとエッチングプレス機》1897年 

《アトリエのリスベート》1897年 
《いじわるなお姫様を演じるリスベート》1900年 デンマーク国立美術館
《バイキング遠征》1900年 
《夕べの灯もりのまわりで》1900年 ティールスカ・ギャラリー
《チェシュティのそりの旅》1901年 個人蔵
《かくれんぼ》1901年 カール・ラーション・ゴールデン
イドゥンに扮するブリータ》1900年 個人蔵

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