ピカソ「20世紀の天才画家」後編【画家】

もう誰もがその名前を耳にした事があることでしょう。パブロ・ピカソ。

近代絵画において“キュビズム”の先駆者であり、美術の歴史を大きく変えた作風を定着させ世界にその天才の名を轟かせました。

また、何人もの女性を虜にさせた、プレイボーイでもあります。20世紀最大最高の巨人と呼ばれた、ピカソをご紹介します。

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後編

新古典主義の時代

ロシアバレエ団

第一次世界大戦中ピカソは恋人エヴァ・クエルを失い、また多くの友人を戦争で失い孤独だったといいます。そしてキュビズムに変わる新たな道を模索していたところ……

1915年秋の事です。ピカソは音楽家エドガー・バレーズを通し、詩人であり画家のジャン・コクトーと知り合いました。

コクトーは、ピカソをロシアバレエ団の舞台装飾の仕事に誘いました。ロシアバレエ団は、時代遅れな大袈裟なスタイルに見切りをつけ、前衛芸術進出を試みていたのでした。

 

 

《『パレード』の舞垂れ幕》1917年 パリ・国立近代美術館

 

そして脚本ジャン・コクトー、音楽エリック・サティ、舞台装飾、衣装パブロ・ピカソ……何と夢のようなキャスティングなんでしょうか。

ピカソはこのバレエの舞台装飾という未知の分野に携わることにより、新たな古典主義へと向かって行きます。

 

結婚、そしてパリへ

オルガとの結婚。そして息子パウロ誕生。

ピカソはしばらく『パレード』の上演地ローマに滞在。1917年5月『パレード』は上演されます。

ローマで彼は、ロシア貴族出身のオルガ・コクラヴァというバレエダンサーと知り合いました。オルガとはたちまち恋に落ち、2人は『パレード』終了後ローマを後にし、バルセロナへ。

バルセロナでしばらく生活を共にした2人はパリへ。そして結婚しました。ピカソ最初の結婚です。

 

《肘掛け椅子に座るオルガ》1917年 パリ・ピカソ美術館

 

「これからは私の顔がはっきりとわかる絵を描いて」と彼女。それからピカソはキュビズムから新古典主義に変えたとか…

すでに名声ある画家としての、2人の暮らしぶりは結構贅沢なもので、豪邸ともとれる2階建てアパート。

運転手付きの愛車でフランス各地を旅行し、夏はディナール、ジュアン・レ・バン、モナコで過ごしました。オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョワ界を教えたといいます。

そして1921年にはピカソにとって第一子、パウロが誕生します。この時ピカソ40歳。

 

 

《アルルカンに扮するパウロ》1924年 パリ・ピカソ美術館

 

《ピエロに扮するパウロ》1925年 パリ・ピカソ美術館

 

《母と子》1922年 ボルチモア美術館

《パウロの肖像》1923年 マラガ・ピカソ美術館

 

古代美術と古典的格調

ロシアバレエ団のローマ公演に参加した事により、ピカソのローマの古代美術に触れた事によって現れた古典的格調のある画風が、この時代の空気のあうものとして人気を集めました。

写実的な人のフォルムではなく、どっしりした肉体への表現が、従来の古典的ではない新しさと、穏やかな安定感を感じます。

 

《浜辺を走る2人の女》1922年 パリ・ピカソ美術館

 

《母と子》1921年 シカゴ美術研究所

《和泉のそばの3人の女》
1921年 ニューヨーク近代美術館

《 牧神のフルート》1923年 パリ・ピカソ美術館

 

この時期40代に達したピカソはすでに何段階かを経た画風の変化によって、賛否両論の渦中にありました。良くも悪くも注目されていたわけですね。

そしてその多様な支持者によって評価の高まったピカソは、いよいよ大御所の域に到達することになります。

 

シュルレアリスム

高まる名声と、暴力的表現

1930年代になると、パリのジョルジュ・プティ画廊、ワーズワース・アセニアム、ニューヨーク近代美術館と、ピカソの画業を集めた大規模な展覧会が次々に開催されます。

また、総作品集が刊行され、単なる前衛画家としてではなく、著名人として名声は広がって行きました。

ピカソは1924年に起こった“シュルレアリスム”と呼ばれる革命的芸術運動に傾倒していきます。

 

《 マンドリンとギター》
1924年 ソロモン・R・グッゲンハイム美術館

《 石膏頭部のあるアトリエ》
1925年 ニューヨーク近代美術館

この時期、ピカソの画風は、描く人体は歪曲され、キュビズムから続く複数の視点から、断片が思いのままに組み合わされるようになります。

新古典主義の穏やかさからは一転させた暴力的とも言える人の身体を切り刻み破壊する行為は、次第に激しさを増していきました。“シュルレアリスム”への美学への接近が強烈に見てとれます。

この背景には、ヨーロッパ社会全体にあった、緊迫した状態が反映されていました。なんでもドイツやイタリアのファシズムの脅威、そして1929年の世界恐慌の影響もあるようです。

 

《3人の踊り子》
1925年 ロンドン・テイト・ギャラリー

《アルルカン》1927年

《ビーチボールで遊ぶ水浴者たち》1928年 個人蔵

《泳ぐ女》1929年 パリ・ピカソ美術館

《庭の中の女》1929-30年 パリ・ピカソ美術館

《座る水浴の女》1930年 ニューヨーク近代美術館

《磔刑》1930年 パリ・ピカソ美術館

 

《彫刻家》1931年 パリ・ピカソ美術館

 

《 鏡の前の少女》1932年 ニューヨーク近代美術館

《夢》1932年 個人蔵

《ビーチボールで遊ぶ水浴者》
1932年 ニューヨーク近代美術館

《闘牛士の死》1933年 パリ・ピカソ美術館

《庭の中の裸婦》1934年 パリ・ピカソ美術館

《女の顔(オルガ・ピカソ)》
1935年 オルブライト・ノックス画廊

 

右《オレンジを持つ女》左《葉を持つ女》
1934年 パリ・ピカソ美術館

 

《室内でデッサンする女》1935年 ニューヨーク近代美術館

 

破壊的な矛先は、ピカソのプライベートにまで及ぶ事に。1931年に17歳のフランス人女性、マリー・テレーズ・ウォルターに熱を入れ始め、妊娠させてしまいます。

それを聞いたオルガは1935年、息子のパウロを連れて家を出て行ってしまいました。

さらになんとその他にも愛人が。28歳の写真家ドラ・マールとも3股をかけてしまう始末……彼自身、急にお金を持ったので、成金芸能人のような……荒れた頃だったんですかね。

 

 

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