ピカソ「20世紀の天才画家」前編【画家】

もう誰もがその名前を耳にした事があることでしょう。20世紀最大最高の巨人と呼ばれたパブロ・ピカソ。

近代絵画において“キュビズム”の先駆者であり、美術の歴史を大きく変えた作風を定着させ世界にその天才の名を轟かせました。また、何人もの女性を虜にさせた、プレイボーイでもあります。

ピカソが生まれたのは1881年10月25日スペイン南部、アンダルシアの港町マラガという町。10歳から画家志望だった父親から絵を習い始め、11歳で父が教えていた美術学校に入学し画家への道が始まります。

20歳の時、パリで「洗濯船」と呼ばれるアパートで、昼夜創作に励みます。それからのピカソは画風をめまぐるしく変化、展開させていきました。「青の時代」、「バラの時代」、そして彼の代名詞でもある「キュビズム」……。彼が生きた時代、世界中の才能が集まるパリで生き残るには、常に新しいスタイルを打ち出して、時代を先取りしていかなくてはならなかったのです。

また、彼の人生は女性にモテモテだったので、数々の女性を虜にさせ浮き世を流す事に。ピカソが時代に合わせて画風を変えれば変えるほど、不幸になる女性が増えたと言います。

そんな彼は91歳まで長生きし、この世を去りましたが残した作品の数は…。

絵画13500点、版画10万点、
挿絵34000点、彫刻と陶器が300点!

とんでもない数ですよね。これはギネスブックにも記載されています。

天才画家がくりだす作品と名声を欲しいままにしたその人生。また男性にとっては羨ましくも、女性にとっては過激でだらしない女性関係だったという、そんなピカソの生涯とは。これからご案内します。

 

前編

 

天才ピカソへの出発

少年画家の誕生

パブロ・ピカソ(あるいはパブロ・ルイス・ピカソ)。本名パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・チプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソ。噂通りの長い名前ですよね。なんでも彼の生まれて最初に発した言葉は「鉛筆」なんだとか。

職業画家であった父ホセー・ルイス・ブラスコの指導のもと、ピカソは8歳時油彩《ピカドール》を描いています。この時すでに才覚が感じられますね。

 

《ピカドール》1889年 コレクションクロード・ピカソ

 

また、算数が全くできなかったという13歳のピカソ。絵の仕上げを手伝わせていた父ホセーは、ピカソがあまりにも上手に鳩を描いたのを見て、画材のすべてを彼に与え、以後自分は絵を描かないと宣言しました。父親はいち早く彼の才能を見抜いていたのです。

 

本当の先生は美術館にいる

1895年、ピカソ家族はバルセロナへ。父ホセーが赴任したラ・ロンハ美術学校へ入学します。父の嘆願で、ピカソは14歳で上級クラスの入学試験を受ける事を特に許可されました。

彼は普通1ヶ月かかるテストを1日で仕上げ、恐るべきスピードと内容で試験官たちを驚かせたと言います。

晩年まで手元に置いたという《裸足の少女》。この頃ちょうど妹のコンチータがジフテリアで亡くなっています。そして《母の肖像》は15歳で描いたパステル画です。

《裸足の少女》1895年 パリ・ピカソ美術館

《母の肖像》1896年 パリ・ピカソ美術館

 

《初聖体拝領》は初めてバルセロナ市の展覧会に出品し注目を浴びます。《科学と慈愛》ではマドリードの美術展にて佳作。後にマラガの県展で金賞を受賞しました。

 

《初聖体拝領》1897年 パリ・ピカソ美術館

 

 

《科学と慈愛》1897年 パリ・ピカソ美術館

 

ピカソは16歳時、スペイン最高の美術学校マドリード王立サン・フェルナンド美術アカデミーに優秀な成績で入学し、トップに上り詰め、展覧会の受賞を足がかりとして画壇を着実に登って行くはずでしたが……。

しかし彼は世紀末パリのボヘミアン生活に憧れ、登校を拒否し始めます。そしてプラド美術館の収蔵品を観に毎日のように通ったそうです。

「本当の先生は美術館にいる」

また、マドリードやバルセロナでは画家や詩人などと芸術運動に参画し、雑誌を刊行するなど新しい芸術活動に、いわば青春期ならではの熱中ぶり。

そんな彼に経済的支援をしていた、叔父は怒って仕送りを止めてしまいました。

 

親友の死

初めてのパリ

1899年所持金が底をついたピカソは、やがてバルセロナに戻りました。美術学校からの友人カルロス・カサジェマスと、暇さえあれば「4匹の猫」という名のカフェへ通います。

そこに集まっていた画家や彫刻家、音楽家たちと芸術について熱心に語り合ったといいます。

 

《カフェ4匹の猫のメニュー》1899-1900頃 パリ・ピカソ美術館

 

 

貧困だったピカソは、カサジェマスの家にはたびたびお世話になっていたらしく、1900年初頭には共同でアトリエを借り、制作を始めました。そしてその年の10月2人は芸術の都、パリに向います。

パリでは毎日のように、美術館や画廊を見て回りました。特にセザンヌの絵には深く感銘を受けたようです。ピカソはすっかりこの街がもつ雰囲気にすっかり魅了されてしまいました。

その年末には2人はバルセロナに戻り、その翌年の1月、ピカソはマドリードに。カサジェマスはまたパリに向かうのでした……が、

カサジェマスはモンパルナス北西クリシー通りの「カフェ・ド・ラ・ロトンド」で、ピストル自殺。なんでも女性関係のもつれと言われています。

《カサジェマスの肖像》1899年 パリ・ピカソ美術館

《死せるカサジェマス》1901年 パリ・ピカソ美術館

《カサジェマスの埋葬》1901年 パリ市立近代美術館

 

これにはピカソの心は深く傷つき、悲しみで覆われました。そして、それから3年もの間彼の描く絵は悲しみを表すかのような、青い色で表現されて行きます。

 

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