ボナール「愛妻家の画家」【画家】

ピエール・ボナール。愛妻家で知られる、モダンアートと、ポスト印象派の中間に位置するフランスの画家です。そして大の日本好きであり「日本かぶれのナビ」とも言われたボナールの生涯をご紹介します。

ピエール・ボナールは1867年10月3日、パリ郊外のフォントネー・オ・ローズに生まれました。彼は三人兄弟の2番目。父親は陸軍省の局長でした。23歳時、美術学校で知り合った仲間と後に“ナビ派”と呼ばれる、気鋭の画家グループを結成。さらにボナールはシャンパン広告のポスターデザインコンクールでは見事優勝を果たし、彼の本格的な芸術人生は始まります。

日本の“浮世絵”にのめり込み、妻マルトをモデルに描き続けたボナールは、やがてフランスの華やかなベル・エポックの文化からは離れ、フランスの田舎に移り住み主に風景、室内情景、静物画を描き、79歳でその幕を閉じます。

作品の数は、グラフィックアートを含め約2200点以上。

大の風呂好きな妻マルトの入浴シーンを30年描き続けたほどの、愛妻家のボナール。

彼の人生、追ってみましょう。

 

ナビ派

美術学校で結成された、若き美術集団

ボナールは1888年、パリ大学法学部に入学。
同時に美術学校アカデミー・ジュリアンの夜間部にも通います。そこで知り合った仲間たち、ポール・セリジェらと共に“ナビ派”と呼ばれる、前衛的芸術家グループを翌年結成することになります。

“ナビ派”の、“ナビ”についてなんですが、当時ブルターニュ地方で若い画家たちとの交流の中で、新たな技法を模索していたゴーギャンを訪問したポール・セリジェが指導を受けた際「護符」とよばれるパネルを授かり、学校仲間のボナールとモーリス・ドニ、アンリ・イベルス、ポール・ランソンに持ち帰えりました。

印象派や写実主義などから、新たな道を求めていた若者たちにとって、それはまさに神からの啓示のようでした。なのでその「護符」が、ヘブライ語で預言者を意味する「ナビ」と呼ぶようにしたそうです。

 

《自画像》1889年頃 個人蔵

 

そのときの彼らのニックネームなんですが、ベイヤールが「ズワーヴ兵のナビ」、ドニが「美しきイコンのナビ」そしてボナールは「日本かぶれのナビ(ナビ・ジャポナール)」。いかにも学生らしいエピソード。

ゴッホもそうですが、印象派以来の前衛美術家は、みんな日本美術に影響されていますね。

アカデミー・ジュリアンから官立美術学校、エコール・デ・ボザールに舞台を移していたボナールは、ここで生涯の大親友エドワール・ヴェイヤール、ケル・グザヴィエ・ルーセルと出会います。

 

《練兵場》1890年頃 個人蔵

 

その年のボナールは公務員試験に落ち。さらにローマ展にも落選します。しかし「フランスシャンパーニュ」ポスターコンクールで見事優勝を果たし、見事賞金100フランを手にしたのです。その功績は、父親にも納得のいくところで、以後美術の道に専念する事を了承してくれました。

“ナビ派”はこの頃に結成されています。翌年の1890年、23歳で6ヶ月の兵役をこなした後、ヴェイヤールやドニと共にパリ・ピガール街に、アトリエを構えるのでした。

 

《フランス・シャンパーニュ ポスター》
1890年頃 リトグラフ

 

《フランス・シャンパーニュ ポスター》は91年のパリ街頭に登場しました。それに感心したロートレックが、印刷会社をボナールに案内させてもらい、リトグラフを始めたとか。

 

浮世絵への夢

1890年、ナビ派にとって、ゴーギャンからの啓示と同様、重大な事がありました。

ボナールの通っていたエコール・デ・ボザールで「日本浮世絵版画展」が開かれたのです。そこには、歌麿や鳥居清長など多くの浮世絵が集められていました。これにはボナールら大変衝撃、感銘を受けたそうです。

以後の作品は、浮世絵の影響が見られるようになっていきます。

 

《化粧着》1890年頃 オルセー美術館

 

1890年代初頭はボナールの「フランス・シャンパーニュ」のポスターの成功で、ポスター、挿絵版画、屏風、壁画などの「実用絵画」に浮世絵ゆずりの変形、平面装飾性を彼自身思いっきり発揮していった時代でした。

《化粧着》は、日本の掛け軸や屏風のような感覚もありますが、ビロード地の渋味を生かしたこの作品は、アールヌーヴォーの造形に近いとされています。

《女たちと犬》と《格子縞のブラウス》は格子縞の衣服に日本美術の影響が。モーリス・ドニが持っていたという、歌川国芳の芝居絵の役者の着物にもとづくものと言われています。この格子縞を好んで描いたのは、とりわけ歌川国貞らの浮世絵の影響だったと本人。

 

《女たちと犬》1891年頃 オルセー美術館

《格子縞のブラウス》1890年頃 オルセー美術館

《黄昏(クロッケーの試合)》1892年頃 オルセー美術館

《二匹のプードル犬》1890年頃
サウサンブトン市立美術館

 

《庭の女たち》1891-92年頃 個人蔵

 

彼はこのころ、油彩よりも装飾に興味があったそうで、《庭の女たち》はもともと日本から渡来した屏風のように、折りたたみ式で意図されていたようです。

ボナールは人物をを大胆に、切ったり意図的にすみの方にずらしたりなど、西洋絵画にはあまりみられないようなアングルを日本美術から取り入れていきました。

西洋絵画の伝統的なアプローチに従って人物をはっきり表すよりも、人物像を斜めにとらえたこの習慣は、生涯通して続く事になります。

また、動物が多く出演するのもボナールの絵の特徴です。

 

飛躍の世紀末画家

30代画家の評価と真価

1890年代は20世紀がまもなく見えだす頃。ボナールにとって、仕事やプライベートいろいろと飛躍の年でした。

ヴェイヤールと共に、マリオネットの革新的な上演に協力し、またイプセンストリンドベリの舞台芝居のために舞台装置を手がけたり、音楽家である妹の夫クロード・テラスの著者、子供の音楽のための入門書の挿絵、後に、信頼できる擁護者とも言うべき「ラ・ルヴェ・ブランジュ」ポスター製作。編集者のタデ・ナタンソンとその妻ミシアは、後にボナールのパトロンとなります。

 

《ラ・ルヴュ・ブランジュのポスター》
1894年頃 リトグラフ

 

《クロード・テラスの音楽教本》
1893年頃 パリ国立図書館

 

グラフィックデザインの注文も請け、仕事としていたボナールでしたが、油彩の技術も、デッサンの技量とともに日々進歩していきます。

 

《パレード》1892年頃 個人蔵

《エラニー・シェル・オワーズの街角》
1893年頃 ワシントン・ナショナルギャラリー

《大きな庭》1895年頃 オルセー美術館

《白い猫》1894年頃 オルセー美術館

《乗り合い馬車》
1895年頃 フェリックス・ヴェルセル画廊

《辻馬車を牽く馬》1895年頃
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

 

《スケートをする人々》1896-98年頃 個人蔵

 

《乳母たちの散歩と辻馬車の列》
1899年頃 オルセー美術館

 

ボナールは1896年に初の個展を開きます。それを見たカミーユ・ピサロは息子に手紙で、「大失敗、印象派世代のだれもがそういうはず」と断言しましたが、ボナールの手がけたデンマーク小説『マリア』の挿絵を見たルノアールが好評価するメモを送っています。

「……絶妙この上なく……この芸術を続けるべき」

後に、ボナールは

「君は、君自身よりも優れた画家に出会うかもしれないが、君の才能は貴重だ。ルノアールから送られた言葉はそんなところです。」

そして…

“ナビ派”は1900年解散してしまいました。

 

 

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