ルーベンス「王の画家にして画家の王」前編【画家】

ペーテル・パウル・ルーベンス。北ヨーロッパにおけるバロック絵画代表者の一人です。ルーベンスと聞いて、連想するのはまずは名作「フランダースの犬」ですよね。

少年ネロが憧れた《キリスト昇架・降架》はとても印象的です。躍動感あふれる劇的な構図と、豪華絢爛の色彩を駆使した作品には誰もが目を奪われます。

「王の画家にして画家の王」と称されたルーベンス。その生涯とは…

ルーベンスはドイツのジーゲン で1577年6月28日生まれました。10歳で父親が他界したためその後母親や兄弟たちともに、両親の故郷アントワープで育ちます。

14歳で絵を志したルーベンスでしたが、1598年に修業を終え、20歳で“聖ルカ組合”にマスター(親方)として登録されます。それからのルーベンスの活躍は大変なもので、カトリックが宗教美術を大量に必要としていたその時代に、次々と作品を制作。

大規模な工房をを経営し、アンソニー・ヴァン・ダイクなどが所属する弟子たちと、各国宮廷からの殺到する注文を次々にこなしていきます。

また、五カ国語を操るバイリンガルだったこともあり外交官としてのも活動。またイギリスとスペインとの間に和平条約を締結させるなど、当時のヨーロッパの国交に多いに貢献しました。

家族煩悩だったルーベンスは、2回の結婚(1人目の妻は病死)で8人の子供に恵まれますが、晩年は慢性の痛風に悩まされ1640年5月30日、心臓発作により62歳で亡くなりました。

フランドル派。バロック様式の代表者。宮廷外交大使・宮廷画家。祭壇画、肖像画、風景画、歴史画など、様々な注文に応え、とても多忙な日々を送ったと言われる、ルーベンス。

その数約2500点以上

彼は素晴らしい“画家”なのでしたが絵画以外にも様々な顔がりあり、みるみる王侯貴族の中で出世を遂げ、「成り上がって」ていきます!

さてそれはどれほどのものだったのか?彼の生涯、見ていきましょう。

前編

栄光への出発

修行時代

父の死後、ルーベンスは母親や兄弟ちともに両親の故郷アントワープへ移住します。少年期はノートルダム大聖堂の近くにあった、ラテン語学校でギリシャ・ラテン言語と文学、
さらに古典古代の文学や文化の造詣を広げ深めていきました。

母の意向で13歳で学校を辞め、一時小姓として働きに出ますが、一年後の14歳で画家を志し、風景画家トビアス・フェルハーフトの弟子になります。この時すでに彼は、独力で素描の技術を習得していたのだそうです。

15歳でアダム・ファン・ノールトのアトリエ、そして 17歳で当時のアントワープで最も高名な、オットー・ファン・フェーンに師事します。彼はギリシア・ローマの古典に造詣の深い教養ある人物で、ルーベンス自身も多大な影響を受け、イタリア・ローマへの憧れを抱く事になります。

そして1598年に修業を終え、20歳で“聖ルカ組合”にマスター(親方)として登録されました。

《26歳の男性の肖像》は署名と年記がある最初の作品。

《26歳の男性の肖像》1598年頃
メトロポリタン美術館
《アダムとエヴァ》
1598-1600年頃 ルーベンスの家記念館

職業画家として《アダムとエヴァ》が描いていた頃、ルーベンスの心はイタリアに駆り立てられるばかりだったと言います。

ネーデルラント

1600年頃のヨーロッパ情勢

ベルギー、オランダ、ルクセンブルクのベネルクス3か国にあたる、低地地域の諸群をネーテルラントとよばれていました。

当時その地域はオランダ(プロテスタント)を中心とする北部が、スペインとの敵対姿勢を強めていたものの、ブリュッセルや、アントワープはスペイン領となりカトリック色を強めていました。

スペイン王フェリペ二世は死の直前、娘のイサベラ王女と夫、オーストリア大公アルベルトをネーデルラント統治者として任命。

1600年民衆の大歓声で迎え入れらた、アルベルト公は後にルーベンスの君主となります。この時の歓迎装飾をオットー・ファン・フェーンと共にルーベンスも手がけました。

この後、間もなく23歳になろうとするルーベンスは、意気揚々と夢のイタリアへ旅立っていきます。

憧れの地ローマ

「彼の地を見、その地で古今の芸術家の作品を真近に鑑賞し、これら手本によって己の芸術を磨き上げたいという欲求に駆り立てられた。」

ルーベンスはイタリアへ入るとまず、ヴェネチアに入ります。ここでかねてから憧れを持っていたヴェロネーゼやティツィアーノの作品を見る事ができました。

到着1ヶ月後、偶然マントヴァ公ヴィンチェンツィオ・コンザガの家臣と知り合いになり、
教養深い芸術のパトロンだった公爵に紹介されたちまち宮廷画家として採用されます。

マントヴァ公のコレクションはそれはそれは素晴らしく、観るなり魅了されたルーベンス。それらはすべて「理想のお手本」となったのでした。ちなみにこの人物、偶然にもオーストリア大公アルベルトの従兄弟にあたるんですよ。

イタリア入り以来、ローマの事ばかり考えていたルーベンス。その1年後ついにマントヴァ公の命で、数点の絵画を模写するためローマへの派遣が決定。それから8年間イタリアに滞在します。

《聖女ヘレナと真の十字架》
1601-02年頃 グラース市立病院礼拝堂
《嘲弄されるキリスト》
1601-02年頃 グラース市立病院礼拝堂
《キリストの埋葬》
1602年頃 ボルゲーゼ美術館
《パリスの審判》
1601年頃
ロンドン・インターナショナル・ギャラリー

8年のイタリア滞在中、ローマを始め、フィレンツェ、ジェノバ、パルマなど、ほとんど自由に動く事が許されました。

中でもローマは熱烈なカトリック信者であるルーベンスにとって聖地であり、ラファエロの構成力、ミケランジェロの彫刻、ティッツァーノの色彩や生命の明るさ、カラヴァッジョの明暗法……。これら多くの作品群が彼を次第に磨いていきました。

マントヴァ公からの模写仕事だけに飽き足らず、自主作品創作にも旺盛だったというルーベンス。この頃は初の外交仕事などで豊富な体験をする事により、コミュニケーション能力もお手の物だったと言います。きっと人を引きつける力を身につけていったのでしょう。

画家としての声価の高まり

やがて、主人のマントヴァ公以外から絵画制作の依頼多くなっていきます。中でもネーデルラントのアルベルト大公の依頼により、サンタ・マリア・イン・ジェルサレンメ教会内に祭壇画を描く事が決定。これがきっかけで、方々からの制作以来が来るようになりました。

《バエトンの墜落》
1604-05年 ナショナル・ギャラリー・オブ・アート
《レルマ公騎馬像》
1603年 プラド美術館
《ブリジーダ・スピノラ=ドリア侯爵夫人》
1606年 ナショナル・ギャラリー・オブ・アート

《キリストの割礼 》
1605年 ウィーン美術学校付属絵画館

《聖ゲオルギウスと悪竜》
1607~08年 プラド美術館
《聖三位一体を崇拝するゴンザガ家》
1604-05年 パラッツオ・ドゥカーレ美術館
《聖母子の画像を崇める聖グレゴリウス諸聖人》
1607年 グルノーブル美術館
《ヴァリチェッラの聖母》1608年
サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂の
主祭壇画

さらなる大きな飛躍と、母の死

1607年イエズス会から依頼を受けていた、サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂の主祭壇画を完成させましたが、ルーベンスは光の加減で、見えなくなるところが気に入らなく、反射しない材料で追加描き直しました。

1作目をマントヴァ公に買い取ってもらおうとしましたが、その頃は経済状態が切迫していて断られたそうです…

1608年ようやく完成した時ルーベンスは母が危篤である事を知らされます。この時ルーベンスは31歳。

これを機会にマントヴァ公の宮廷画家を辞職し、急いでアントワープを目指しましたが……
母親は既に亡くなっていたのでした。

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