ムンク「苦悩の画家」前編【画家】

エドヴァルド・ムンク。ノルウェーでは国民的画家で、“表現主義”作家として大変尊敬されています。橋の上の奇妙な絵、《叫び》はあまりにも有名ですね。彼が表現した感情は、常に不安や恐怖がありました。今回は苦悩を抱えたその人生にせまります。

1863年12月12日、ムンクはノルウェーのロイテンで生まれました。父親は軍医で、家系的には多くの分野で実績を残していた由緒ある家柄。そんな若かりしころの彼と彼の家族は、2度の不幸にみまわれました。そして自らも病弱だった彼はこのころから死の恐怖にとりつかれていた、とも言えるそうです。

そんな彼を救った絵の世界。17歳で画家を志すムンクでしたが…

何度も心身ともに病み、それでも自分に向き合いながら、すべてを絵に結びつけて考え、80歳でこの世を去るまで絵一筋に生きた63年間。

その数は生涯およそ1700点。そして大量のスケッチと習作、版画のモチーフは800を超えます。

苦悩をかかえ、自らの人生とひきかえるように傑作を残してきた、“表現主義”作家ムンク。これからわかりやすく、ご紹介します。

前編

クリスチャニアでの修行時代

17歳の決心

生きる不安と失病。心を強くした“絵描き”への希望。

ムンク一家ははムンクが生後間もないころノルウェーの旧首都、クリスチャニア(現オスロ)に移住。ムンクがまだ5歳の時母親ラウラが結核で先立ち、さらには14歳時姉ヨハンネも結核で亡くなってしまいます。彼自身も慢性気管支炎を患っており、これには生涯悩まされる事になります。

「いつ、なんどき愛する者を奪っていくかはかりしれない、病と死への恐怖がある。」

母親の死後、叔母カーレン・ビョルスタがムンク家族の母親代わりになりました。ムンクは、思慮深く、絵心のあったカーレンに影響され、次第に水彩をはじめたのでした。

13歳のときにムンクは新しく設立された芸術家連盟でムンクは評価されます。その後、ムンクは油彩を始めるようになりました。

《フォスベイエンからの眺め》
1880年 リレハンメル美術館
《古アーケル教会》1881年 ムンク美術館
《リビングルーム》1881年 ムンク美術館

父に薦められて入った工業専門学校でしたが、彼の度重なる発病のため就学には無理があった反面、その間、風景画や静物画など本気で絵を描きはじめました。父の反対を押し切りったムンクは、17歳の日記にはこう書いています。

「いま工業学校に退学届けを出したところ。ようやく決心した。絵描きになる。」

彼の画才に気づいていた叔母カーレンは、これを讃えたといいます。


ムンクは1881年、18歳になる年、クリスティアニアの王立工芸学校(現オスロ国立芸術大学)に入学します。ノルウェーでは有名な彫刻家ユーリウス・ミッデルトゥーンに師事。人物造形画をすぐにマスターし、1883年にはムンク初めて公に作品を展示するようになり、また他の生徒とアトリエを共有して絵画制作に取り組みます。それから画家のクリスチャン・クローグに師事、また親類の画家フリッツ・タウロウの野外美術学校に参加します。

《自画像》1881-1882年 ムンク美術館
《朝》1884年 ベルゲン・ラスムス・メイエル・コレクション
《揺り椅子に座っているカーレン叔母》1883年 ムンク美術館
《病める子》1885-86年 オスロ国立美術館
《その日の翌る日》1885年(1894年に書き直されたもの)オスロ国立美術館
《自画像》1886年 オスロ国立美術館
《春》1889年 オスロ国立美術館
《渚のインゲル》1889年 ルゲン・ラスムス・メイエル・コレクション

22歳時、タウロウ推薦でのパリ短期間の留学は、フランス“印象派”から強烈な刺激を受けました。1885年の作品はムンクは“写実主義”、“印象主義”などさまざまな画風を試みました。マネの影響が色濃く作品に見られるのが多いのも特徴です。

クリスチャニア・ボヘミアン

この頃から首都の自然主義的作家や画家の急進的なアヴァンギャルド・グループ、クリスチャン・クローグ率いる“クリスチアナ・ボヘミアン”と接触するようになります。

“クリスチアナ・ボヘミアン”=1880年代ノルウェーの首都である、クリスチャニア(現オスロ)で生まれたグループであり、芸術運動。

当時社会現象となり市民の大部分を巻き込み、政府も震撼させたという革新的運動でした。これはクリスチャニア・ボヘミアンのリーダー格、アナーキスト作家《ハンス・イェーガーの肖像》。

《ハンス・イェーガーの肖像》1889年 オスロ国立美術館

イェーガーは伝統あるキリスト教的道徳に反する過激な“反道徳主義者”でした。

彼らの提唱した“ボヘミアン運動”の戒律は…家の絆から脱却/父母とは無関係/隣人とは仲良くするな、劇場ではつねにスキャンダルを/悔い改めてはならない/自らの生命を絶つ事…などそして経済的不公平に違を唱え、社会主義の実現を訴えました。

異常ともとれるイェーガーに、当時の若者たちが熱狂し、ムンクもその信奉者になっていたと言います。

この頃ムンクは1885年から数年間、フリッツ・タウロウの義妹、人妻ミリー・タウロウとの禁じられた恋愛に陥り、苦しい思いをしていたこともあり、青年ならではの、ムンクの複雑な心境が伺えます。後に出て来る《接吻》はこの不倫のイメージだと言われています。

この頃の個展はあまり理解されなかったようですが、89年度の第1位として留学が決定するのでした。

3年間のフランス遊学

サン・クルー宣言

ムンクは1889年、26歳でパリに再度留学。
この時スーラロートレックゴーギャンゴッホの作品に接し、反印象派的作風に大きく影響されます。

この年の11月、父クリスチャン・ムンクが脳いっ血で急逝。父の死は強い悩みと悔やみでムンクの心を閉ざしまし、自殺まで考えるほどに。ムンクは生死の問題について再度、考えるようになり、《死のアレゴリー》といわれるスケッチ画が残されています。

西郊サン=クルーへと移りました。移り住んだマンションの室内。《サン・クルーの夜》です。

《サン・クルーの夜》 1890年 オスロ国立美術館

「室内画、読書する人物、編み物をする女、そんな絵はもういらない。 呼吸し、感じ、苦悩し、愛する、生身の人間を描くのだ。」

これは「サン・クルー宣言」と呼ばれるもので、生涯続く決定的なテーマ「生命のフリーズ」連作の構想を抱いたと言います。

《サン・クルーの川からの眺め》
1890年 オスロ国立美術館
《ラファイエット街》
1891年 オスロ国立美術館
《カール・ヨハン街春の日》
1890年 ベルゲン市絵画館
《ルーレット》1892年 ムンク美術館
《絶望》1892年 オスロ国立美術館
《接吻》1892年 オスロ国立美術館

フランス留学では、多くの制作に着手、作品を残しました。有能な異例の才能への処置としてさらに奨学金が更新され、ムンクはニースへ拠点を移します。さらに再度、パリへもどりますが、それから1892年ノルウェーに帰国。帰国後はクリスタニアで個展、アドヴェルト・ムンク「ノルウェー分離派」展を開きました。

《インゲルの肖像》1892年 オスロ国立美術館

この「ノルウェー分離派」展そしてベルリンの展覧会から、「生命のフリーズ」シリーズの絵がは少しづつ発表されていきます。さて、次のステージはベルリンへ。国際舞台への最初の展覧会が開かれます。

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