ゴッホ「炎の画家」後編【画家】

今でこそ知らない人はいないほどの偉大な画家、フィンセント・ファン・ゴッホ。でもその生涯は決して恵まれたものではなかったようです。「炎の画家」とも言われる、その壮絶なる人生とは。

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後編

ゴッホの夢、黄色い家

夢の共同生活、夢の芸術共同体

アルルでゴッホはある夢を実現しようとします。兄弟愛に満ちた芸術家共同体(コロニー)。これは修道院をモデルにした修道僧の共同生活でした。

《黄色い家》ファン・ゴッホ美術館
《フィンセントのの部屋》ファン・ゴッホ美術館

黄色い家を借り、12脚の椅子を揃え、彼にとっての愛と芸術の象徴「ひまわり」の絵を12枚描いて飾るつもりでした。そこに集まるはずの仲間を、キリストの12使徒になぞらえて…「太陽=ひまわり=神」南仏の太陽を崇める画家達として集まる共同体の実現は、ゴッホにとって理想郷だったのかもしれません。

けれども…やってきたのはゴーギャンだけでした。


ひまわりに込めた熱くも切ない想い

この《ひまわり》は黄色い家でゴーギャンが到着する前に描き上げた4枚のうちの1枚。専門家によればこの作品に日本の“浮世絵”が影響しているのだとか。15本あるのはキリスト12人の弟子に、自分と親友ゴーギャン、そして弟のテオを足した数だと言われています。

これは本人お気に入りの3作目。

《ひまわり》ロンドン・ナショナル・ギャラリー

そして、左から1作目、2作目、4作目。2作目は戦前日本の実業家が購入しますが、空襲により焼失しました。写真は複製されたものです。これがゴーギャンの為に描いた4枚。あとこの他、3作目と4作目を模写した3種が存在しています。

《ひまわり》左から1作目/個人蔵、
2作目/焼失、4作目/ノイエ・ピナコテーク

耳切り事件

生涯で最もショッキングな事件

たった1人「黄色い家」に来てくれた親友ゴーギャン。本当はゴッホに誘われた当時は貧しくて、移動のお金もないくらいでした。

そこで美術商の弟テオがゴーギャンの作品を一枚売る事に成功します。これで旅費を賄う事が可能となりました。これにはゴッホ、大喜びでした。

大好きな大親友ゴーギャン。最初は仲良くやっていたそうです。一緒に絵を描きに出たり、毎日一緒に食事をし、毎晩絵についての議論をし…しかしだんだん言い争うようになり、空気が張りつめギクシャクし始めます。

一緒に住み始めて2ヶ月後の事でした。クリスマスの直前の出来事。ゴーギャンにゴッホの自画像の耳の形がおかしいと、指摘されてしまいます。この事でとうとうキレたゴッホは、出かけたゴーギャンを街角まで追走。

カミソリを手に襲いかかろうとしていましたが、気配に気づき振り返ったゴーギャンは、彼を睨み返し…ゴッホは何もしないで家に帰ったそうです。そしてその後悲劇は起こりました。

なんと、持っていたカミソリで自分の耳を切り落としてしまったのです。

床や階段に飛散した血痕。切った耳は馴染みの娼婦に届けたという。ちょっと尋常ではない、なんという行動。なんという狂気。ゴッホは入院を余儀なくされ、ゴーギャンはアルルを後にしました。

《包帯をした自画像》ロンドン・コートルード・研究所

サン・レミ・ド・プロヴァンス

人生の暗転、入院したゴッホ

ゴッホは「耳切事件」の後、入退院を繰り返しました。アルルでの近隣住民は彼を危険人物ととみなし、大酒飲みでふしだらな「赤毛の異常者」とののしりました。絵の具を食べようとしたり、幻覚、幻聴もあったり。そしてたびたび、発作を起こしたそうです。

担当医からは、「あの黄色い家には帰らない方が賢明」という事で、テオと話し合いアルルからほど近い、サン・レミ・ド・プロヴァンスの療養院に入院します。ゴッホ1889年5月、36歳の春の事でした。

《刈る人のいる麦畑と太陽》
クレラー・ミューラー美術館
《オリーブグローブ》ネルソンアトキンス美術館
《種まく人》
スタブロス・ニアルコス・
コレクション

しかしそんな状態でも絵を描く事については、しっかり気持ちはあったようです。発作の危険性から屋外で描く事がほとんどできなくなり、模写をしたり、想像で描く事が増えていきました。次第に作品の様相はアルル時代からは一変します。力強く荒々しいタッチ、うねるような筆触。

ゴッホのサン・レミ療養院の窓から見た風景。研究者によれば“麦刈り”は、聖書にしばしば出てくる「人の死のイメージ」とのこと。

《糸杉のある小麦畑 》メトロポリタン美術館

星月夜

《星月夜》は入院直後の作品、大変人気のある絵です。渦巻状の星雲が描かれていますが、これは当時人気だったカミーユ・フラマリオンの天文学書の挿絵を元にしたものだと考えられています。星や月の位置は正確ですが、この景観は実際には異なるそうで中央の教会も存在しません。

実はこの絵、ゴッホが挑戦した数少ない抽象画の一つ。友人画家エミーユ・ベルナードに送った手紙の中でこう言ってます。

「1、2度は抽象的な方向へ向かおうとしたが、間違いだった。」

《星月夜》ニューヨーク近代美術館

赤いブドウ園

そんな療養中、嬉しい知らせがゴッホに届きます。美術界で作品が評価され、初めて絵が売れたのです。それがこちら。アルル時代、モンマジュールで描いた《赤いぶどう園》

《赤いぶどう園》プーシキン美術館

これは兄を売り出すために熱心にだった弟のテオの功績です。その展覧会の反応として美術評論家が文芸誌にゴッホの作品について、好意的な記事を寄稿、さらにテオが大規模な展覧会に出品し良い評価を得ました。

しかし…喜ぶどころか、ゴッホにとってはすべて重荷に思ったようです。

「僕の絵についてこれ以上記事を書かないように頼んでくれ。彼は僕の事を誤解している。世間の注目に応えるにはあまりに苦悩をかかえている。絵を描くと気が紛れるが、人の評価を耳にするのは苦しい事だ」

戸外へ、愛する自然再び

「自然を描くためには、じっくり自然の中でくらしてみなければならない。」

ゴッホは体調が回復してくると野外での制作に乗り出しました。サン=レミ精神病院の身近な場所にオリーブと糸杉が生えており、このころの作品には、この二つの木が多く見られます。「ひまわり」にくらべ、「糸杉」の“死”を象徴したかのような解釈をする研究者もいるようですが…

《自画像》オルセー美術館
《黄色い空と太陽のあるオリーブ園》ミネアポリス美術館

「いつも糸杉の事で頭がいっぱいになっている。エジプトのオベリスクみたいに美しいそれに緑がきわだっている…」「オリーブ畑は実に特色が豊かだ。何かとそれを促えようと懸命になっている…」

弟テオへの手紙には、そんな前向きで力のある文面が見て取れます。

《星月夜と糸杉のある道》クレラー・ミューラー美術館

1年後の1890年5月20日37歳になったゴッホ。入院中は150点もの作品を残しました。テオから息子が生まれたという嬉しい手紙が来ますが、ほどなくして彼はまた発作をおこしました。

「サン・レミにいても症状は良くならない」

自ら退院し、場所を北仏へ移す事にしたのです。そして…運命のその日はすぐそこまで来ているのでした。

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