ゴッホ「炎の画家」前編【画家】

今でこそ知らない人はいないほどの偉大な画家、フィンセント・ファン・ゴッホ。でもその生涯は決して恵まれたものではなかったようです。「炎の画家」とも言われる、その壮絶なる人生とは。

ゴッホ(フィンセント・ファン・ゴッホ)は、1853年オランダはフロート・ズンデルト村の牧師の家に生まれました。23歳まで画商の仕事、その後神学校で伝道師を志しますが、結局27歳で本格的に画家の道を歩み始めます。

ゴーギャン、スーラ、ピサロ、ルソーなど同じく有名な画家友人にも恵まれますが、37歳で精神を病み拳銃自殺という悲劇の最後を迎えます。

作品は10年間で1700枚以上。

しかし生前に売れた絵は「赤いぶどう畑」のたった1枚だけだったと言われています。

でもあれだけの才能の画家の絵がたった一枚しか売れなかったなんて信じられませんよね。ゴッホ美術館主任研究員のテオ・メーデンドーフ氏によれば、数枚は売れていたと、最近の研究では明らかになっています。

そしてゴッホは本当に自殺したのでしょうか?

2011年に出版された『Van Gogh: The Life』によれば、他殺の可能性もあるそうです。

映画『ゴッホ 最後の手紙』(2017年)でもそんな推理ストーリーが展開されています。かつて無かった絵画表現で構成された素晴らしい映画です。興味ある方はどうぞ。

ゴッホの生涯、これからみなさんにわかりやすく解説していきます。

前編

画家人生の始まりは暗く、せつなく

家族ごっこ

画家を志した翌年1881年、28歳時オランダのバーグに移り住むと、ゴッホは娼婦のシーン・ホールニクと出会い同棲を始めます。シーンは5歳の娘を連れており、そして妊娠していました。

牧師の息子で当事すねがじりだった彼が、娼婦と同棲している事は大問題だった事でしょう。

しかしハーグでの暮らしはどちらかというと充実した日々を送っていたようで、地元の画家達や従兄の画家アントン・マウフェと交流がありました。マウフェからは水彩画の指導も受けていたようです。

やがてシーンとの事でマウフェとの交友関係も途絶えますが生涯たった一度だけ持った「家族」シーンとその子供達との暮らしに夢中になっていきます。

「絵を描くことより生きる事の方がずっと大切なんだ。暖かい家庭があってこそ絵が描ける。」

これは当事生活費の送金をしてもらっていた弟テオに送った手紙の一文です。彼がいかに家族を大切に、憧れがあった事かがわかりますよね。

《悲しみ》ニュー・アート・ギャラリー・ウォルソール

しかし、シーンとの暮らしは「家族ごっこ」のまま終わりを告げます。両親にシーンとの結婚を反対されたゴッホは、次第に世間や教会が蔑視する対象へと愛を傾けて行く…

ゴッホはシーンに売春をやめさせ、絵のモデルをさせるなど夫婦としてまともな暮らしを目指しましたが、努力したのもむなしく、シーンはまた娼婦の道に戻ってしまいます。もとより家族を養えない彼は、結局彼女と別れてしまいました。

父の死と、キリスト教文化からの転機

シーンとの生活を後にしたゴッホ。30歳の時、父親が移り住んでいたニューネンで、教会のアトリエを拠点に次々とデッサンに励み、水彩、油絵作品を制作していきました。

《ジャガイモを食べる人々》ファン・ゴッホ美術館
《ジャガイモを掘る2人の農婦》
クレラー・ミューラー美術館
《刈り込んだ柳のある風景》個人蔵
《ニュネンの牧師館の庭》
グローニンゲン 博物館・美術館

そんな中ゴッホとの恋愛関係にあった女性が、双方の両親に反対され自殺未遂。さらに、父親テオドルスが脳卒中で亡くなってしまいます。この頃の彼の心情たるや計り知れない物がるように思いますね。牧師の父と一度は志したキリスト教との関係を見直す転機になったような、作品にはそんな心情がよく現れています。

《聖書のある静物》ファン・ゴッホ美術館
《ニューネンの旧教会塔》ファン・ゴッホ美術館
《聖書のある静物》ファン・ゴッホ美術館

陽の当る世界へ

弟テオとの暮らしと“印象派”の世界

1886年、オランダを離れ一時ベルギーの美術学校で絵を学んでいた(一説によると一ヶ月で退学)ゴッホでしたが突然、パリで画廊に勤めていた弟テオの家に押し掛けます。33歳の時でした。そして“印象派”という色彩表現を習得していきます。

“印象派”の絵の特徴とは…絵の具をパレット上では混ぜず,原色に近い色をカンヴァスに細かいタッチで並べる色彩で表現されている。

この技法はゴッホの画風を一変させました。しかし、一見印象派風に見える彼の作品も色が濁っていたり、色彩バランスが大胆すぎたり、印象派画家が決して描かなかったようなモチーフも描いています。なのでポスト印象派とも言われています。結果的に彼の画家人生としてはひとつのステップに過ぎませんでした。

《レストラン・デ・ラ・シレーヌ》 オルセー美術館
 《クワイ・クリシーから見た
アニエールの工場》
セントルイス美術館
《ルーヴェンの部屋からのパリの眺め》
ファンゴッホ美術館
《自画像》 シカゴ美術館
《揺りかごの側に座る女性》
ファン・ゴッホ美術館

浮世絵との出会い

印象派から色彩感を会得したゴッホは、さらに運命的な出会いがありました。

日本の“浮世絵”です。

“浮世絵”を目にしたのは日本から大量の美術品を持ち帰った、ユダヤ系画商の店の屋根裏でした。かつて存在自体は知ってたものの、そこでそれらを目にした彼は、決定的な影響を受けます。

《花魁》ファン・ゴッホ美術館
《タンギー爺さんの肖像》ロダン美術館

《花魁》は浮世絵師、渓斎英泉(けいさいえいせん)の模写作品。そして絵具商のタンギー爺さんの背後には“浮世絵”。頭上には富士山がありますね。そして下は歌川広重の模写。左がゴッホ作です。比べて見てください。

右《ジャポネズリー/雨の大橋》ファン・ゴッホ美術館
左《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》歌川広重

ゴッホは“浮世絵”のうねるような筆使いの虜になりました。それからの彼の作品には“浮世絵”の影響が大きく関わってきます。

浮世絵師の事を高く評価した彼はこう言ってます。

「僕の作品の特徴は、ほとんど日本の浮世絵のなかに見つける事ができるでしょう」

この絵はすっきりとした線で橋を描いています。東洋的な書き方がよく現れていると言われています。

《アルルの跳ね橋》クレラー・ミューラー美術館

自身を日本のお坊さん(僧侶)として描いた作品。僧侶としての自画像と記載されていることもあるそうです。

《坊主としての自画像》フォッグ美術館

上の2つの絵はアルルで描かれたのもの。

さてさて…

すっかり日本のに魅せられたゴッホ。彼は何故か、「南仏アルルにこそ日本芸術があるのだ」と信じ、パリを後にします。南仏に日本が?一度も行った事のない、ゴッホの想像した日本とはなんだったのでしょうか?

我々日本人には良く解りませんが…ゴッホはこう言っています。

「僕らは日本絵画を愛し、その影響を受けている。これはすべての印象派画家について言える。
それならどうして日本へ、つまり日本にあたる南フランスへ行かずにいられようか。」 

彼は南フランスに向かいました。そしてその決心がこれから彼の歴史に名を刻む、数々の傑作を生み出すことになります。

最初のコメントをしよう

必須